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向かう先(ショートショート)

 高校を卒業して、四月からは就職。
 微かな憧れを抱いていた大学進学の夢も、いつの間にか時間の流れに呑まれ消えていった。
 志がその程度だったのだ、と言われると何も言葉が出なくなってしまう。
 きっと実際に誰かに面と向かって言われたら、感情的になって怒り心頭に発するかもしれない。そうなってしまう理由は、それが図星だからだ。
 この数年間、将来のことなんて考えずに生きてきてしまった。そのツケが今になって表れたのだ。
 曖昧な選択の繰り返しの先に、僕に残っていた選択肢は就職一択だった。
 いつの間に。いつの間に。それが口癖になっていた。口をついて出る言葉も、心の中で唱える言葉も、ほとんどがそれ。
 僕は流されるまま、″いつの間に″か、就職することになっていた。

 今、心の中には迷いがあって、それがしつこくまとわり付いてくる。
 これから先どうすればいいんだろう? 何を支えにして生きていけばいいのだろう? 明確に将来を悲観する何かがあるわけではないけれど、心のどこかに引っ掛かりを感じる。
 四月からも実家から、内定をもらった会社に通う。今までと違うことといえば、車を運転できるようになったことと、毎朝行わなければいけないことが"通学"から"通勤"に切り替わるということくらいだ。
 まだ新しい生活は始まっていない。もし始まったとしても、新しい生活と言っていいのか分からないほど、今までと何も変わらない日常が繰り返されるだけなのだろう。
 大学生になる同級生たちは、きっと新しい生活に胸を膨らませているころだ。その目に見える景色も、僕が見ているここからのものよりずっと輝かしくて……。

 ***

 考えるのをやめた。
 こんなことをしていても、変わらないものは変わらない。分かっていても考えてしまうのはきっと、それだけ暇な時間があるからだ。
 外の空気を吸いたくなって、出かけることにした。
 車の運転はまだ慣れないものの、一応ある程度行動範囲は広まった。
 とりあえず、どこか遠くへ行きたい。ここじゃない場所に。

 高速道路に乗って、夕暮れの街の上を行く。オレンジ色の空気と、建物から滲む紫の影が強いコントラストを生んでいる。
 流れていく景色の途中で、白く発光する塊が見えた。それは確かな存在感を持って、視界の端の方に陣取っている。
 桜だった。ライトアップされているのか、異様にも思えるほどくっきりと浮かび上がる姿は、どこかこの世のものとは思えないほどの美しさがあった。
 今までこんな場所、あっただろうか? 不思議に思ったけれど、それよりもどんな場所なのか気になった。好奇心に任せて行ってみることにした。

 そこは道の駅だった。春が滞留しているような空気のにおい。
 桜の花びらが散って、それが微かに光っている。初夏の川辺で見かける、蛍の光に似ている。
 とりあえず歩き回ってみることにした。
 桜の木の上にツリーハウスがある。どこから行けるだろう。辺りを見回してみると、すぐに階段が見つかった。
 木製の階段を上る。薄桃色の明かりに照らされた木目が綺麗に浮かび上がっている。足裏に伝わってくる感触も心地いい。
 階段を上りきると、木の幹を囲むように足場が組まれていた。
 その上のツリーハウス。中ではお土産が売られているらしい。どうやらその大抵が、桜や春にまつわる雑貨のようだ。
 これは。
 店頭のラインナップの中から気になったものを手に取る。
 方位磁針、だと思う。針先が桜の花びらのような形になっている。けれどひとつ、おかしなところがある。
 針先がどこを向いているか分からない。東西南北の表記が無いのだ。
「それは、あなたがこれから行くべき方向を教えてくれる方位磁針です」
 ふいに声が聞こえたせいで、思わず後ろに飛び退いた。
 店員の人だった。幻想的な景色の中に身を置いていたせいで、全く気がつかなかった。
「行くべき方向を教えてくれる、ですか?」
「はい。これからあなたが人生をよくするためにはどの方向に向かえばいいのか。それを教えてくれます」
 そんなオカルトじみた話、とてもではないけれど信じられない。ちらりと今手に持っている方位磁針を見ると、ずっと店員のほうを指している。
「この針が指す方へ進めばいいっていうことですか?」
 店員は、深くゆっくり頷きながら一言、
「はい」
 と答えた。
「もちろん、針の指す方にあえて進まず人生を送ることもできます。あくまで、占いやカウンセリングのような、こういう道もありますよ、と教えてくれるものだと思って頂ければ」
 のどの奥で小さく声が漏れた。ふうむ。これはどうとるべきか。
 自分は確かに、これから先の生活について悩んでいた。そして、その状態から脱したいと願い、そのためにはどうすればいいだろうとも、思った。
 目の前に、その悩みに対する答えが置かれている。
 これからどの方向に進めば、人生が良くなるか、教えてくれる方位磁針。
 これに従えば、もしかしたら先の人生が大きく変化して、退屈せず、毎日ワクワクしながら生きていけるかもしれない。
 どうするべきだろう。

 ***

 ココアを啜る。道の駅の中にあるカフェにいる。
 少し熱めの温度が、喉から胃にかけて流れていくのが分かる。ほぅ、とため息をつくと、マグカップからの湯気が揺らいだ。
 結局、方位磁針は買わないことにした。
 確かに、どこに進めばいいのか分かるというのは、とても嬉しいことだ。選択を間違えることが無くなるからだ。
 けれど、その一方で、一度も間違えることなく進んだ先で、ほんの些細なミスで間違えたとする。そうなった時の事を思い浮かべてみると、なんとも言えない気持ちになった。
 例えばその一回で、今まで積み上がってきたものが全て崩れるとしたら。そうなったら僕は、どうするんだろう。
 方位磁針を買わなかった最大の理由はそれだった。
 もしかしたらこれから先、一度も間違えずに人生を生ききることができるかもしれない。
 けれど、ほんの一瞬の気のゆるみで、全てが瓦解する日が来るかもしれない。その事実が、妙に生々しく心の隅にこびり付いて離れなくなってしまったのだ。
 そういったことも含めて、つまり、失敗する現実も全てひっくるめて経験出来るなら。失敗も恥も全部、引き寄せてくれる方位磁針だったなら、あるいは。
 そんなことを考えてもまあ、仕方ないか、と思う。買わなかったんだし。
 大きく息を吸い込むと、甘いココアの香りで肺が満たされる。吐き出す。再びマグカップの湯気がふわりと揺れて、何事も無かったみたいに立ち直った。
 僕はテーブルに反射する照明のべっこう色をぼんやりと眺めている。
 これから先のことは、自分が心からやりたいと思ったことをしよう。きっとうまくいかないことだらけだろうけれど、きっと何とかなるだろう。
 きっと何とかなる、なんて、曖昧な選択ばかりで嫌になるな、と自分でも思うけれど、きっと大丈夫だ。
 曖昧に揺れ動くココアの湯気は、まるで今の自分を表しているみたいだ。
 本当、嫌になる。
 そんなことを考えながらも、口許は緩んでしまっているのが少し不思議だ。

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