「ゆるし」から「あるがまま」へ~森田療法におけるあがり症克服のヒント
あがって何が悪いんですか?
最近の私のキーワードは「ゆるし」です。
許し、もしくは赦し、そしてもう一つ、緩み。
生きにくさを抱え、「かくあるべき」、「かくあらねばならない」といった信念を強く持つ人は、その信念が自分自身や他者、そしてこの世界の物事に向かいます。
それがあまりにも強い信念となった時、対人関係がほころび始めます。
自分自身との関係である対自関係をも含めて。
かくあるべき理想とそれに届かぬ現状を比較して、過剰なまでに否定します。
「かくあるべき」というあり方が必要な時はもちろんあるでしょう。
たとえば、オリンピック選手や聖職者ならそうかもしれません。
それは指導する側にとっても、指導される側にとっても。
しかし、しょせん我々は凡人です。
そのオリンピック選手レベルでやるとあまりにも苦しい。
しかも、「かくあるべき」という看板を押し付けられた時、オリンピック選手になりたくもない他者にとっては勘弁してほしいというか、余計なお世話というか、時に迷惑極まりないでしょう。
更には、「かくあるべき」という看板が不可能な領域に向けられた時、悲劇が起こります。
なぜなら不可能を可能にしようとしているのですから、永遠にそこにはまりこみ続けます。
じゃあ、それはどんなあり方なのでしょうか?
それは、不安をなくしたいというあがり症の切なる願い。
この緊張さえなくなればというあがり症の望み。
失敗した過去を悔い、責め続けるあがり症のあり方。
もし、そんな自分を、あぁ本当に不可能なことをやってたんだなと頭ではなく腹で理解し、そして、それでもなお同じことをやってしまう自分を許せた時、まるで憑き物が落ちたかのように、厳しかった眉毛のVの字が、フワッと緩みます。
だいたいの方がその時、表情や声のトーンが変わります。
もしかしたら、あがり症の方に本当に必要なことは、あがらないことでも、不安をなくすことでも、手の震えをなくすことでもなく、そんな情けなくて、恥ずかしくて、みっともなくて、小心者な自分をゆるすことなのではないでしょうか。
あがっていいのではないでしょうか。
あがって何が悪いんですか?
人間なんです。
ましてやあがり症なんです。
これまで長い間に渡って、決して勝つことのない百戦百敗の闘いをやってきたご自身をどうかゆるしてあげてください。
あがっていいんです。
あがりを恐れながらあがりを選択する
そして、あがっていいと思えるようになっていくと、いろんなことが変わっていきます。
森田療法の創始者、森田正馬は、森田神経質いわゆる対人恐怖症などの不安神経症の患者にとって望ましいあり方を、「あるがままに」生きることにこそあるとしました。
森田療法における「あるがまま」とは、症状があってもそれはそのままにして、今目の前にある物事に集中して取り組むということです。
緊張がなくなってから行動するという姿勢ではなく、びくびくするならびくびくするがまま、緊張するなら緊張するがまま人前で話す。
伝えるべきことを伝える。
不安がなくならない限りみんなとのお茶会に参加しない、飲み会に参加しないというのではなく、不安にかられながらも、え~い、ままよとばかりに参加する。
緊張や不安がありながらもそれはそのままにして恐怖突入することにこそ、症状克服の鍵があるとしたのです。
あがり症を含む森田神経質の方々は段階的思考の傾向があります。
それは自分の症状がなくならない限り、恐れている状況を回避するというものです。
そうして自分の行動範囲を狭めていくのです。
なるほど回避している限り失敗することはありません。
しかし一方、成功体験を持つことも一生ないでしょう。
人によっては一生抱え続ける悩みとなります。
私はそういった生き方を続けている方々も多く見てきました。
そういった方々は、不安や恐怖がある場面を避けることで自分の安全が保たれるとし、危険地域には近寄らなかったのです。
あがり症の今の生き辛さよりも、挑戦によって失敗することのリスクを避けるメリットの方が大きかったから、変化の伴わない安定というメリット、つまり今の生き辛さを選択したと言ってもいいのかもしれません。
人は目の前の一万円と10年後の十万円では、目の前の一万円を選んでしまいがちなんです。
来るかどうか分からぬ遠い未来の十万円より、今の一万円の方がいいに決まっています。
だからある意味、あがりを恐れながらもあがりを選んできたのです。
なのに、あがりを選びながらあがりを恐れて、不安と恐怖から逃げまくる。
現実生活の只中へ
しかし、たとえば火山や原発事故のあった場所は避けられても、果たして不安や恐怖という感情そのものは避け続けることができるのでしょうか?
人が生きるうえにおいて不安や恐怖はつきものです。
あがり症~別名、社交不安障害(社交不安症)の方が不安や恐怖を避ける選択をした時、それは社交、すなわち人との関わりを持たないという決断になります。
私が見た方々は今目の前の恐怖から逃れるために、人との関わりを極力なくす回避的人生を選択していました。
かつての私自身がそうでした。
不安や恐怖におびえながらも人と会話したり人前で話すことは、短期的には回避的人生を選択した方々より苦痛を味わいます。
その苦痛は社交不安障害の方にとって確かに相当なものです。
しかし、不安や恐怖という気分があっても、会話に集中したり、人前で伝えるべきことを伝えようとしたりして今ある目的に集中し取り組み続けていく中で、必ずや不安や恐怖が軽くなっていたり、あるいは不安や恐怖を忘れている瞬間があったことに気づきます。
それは、確かに最初のうちは砂上の楼閣のようなあるかないか分からないような瞬間かもしれません。
しかし、取り組み続けていく中でやがてそれは継続した時間となるでしょう。
あがることをあってはならないと打ち消そうとするのではなく、不安や恐怖は「あるがまま」にゆるし、今ある目的に取り組むことによって付随してあがることが流れていく、そしてあがることへの囚われがなくなっていく、それこそが森田療法における症状克服なのです。
あなたは魔法の薬を願っているのかもしれない。
しかし、そこには魔法の薬はないのです。
現実生活の真っ只中に飛び込んで生きていくことにこそ、泥臭いけど、真実の答えがあるに違いありません。
そしてそこには、私が何度となく何度となく言い続けている、他者とのつながり、すなわち安心・安全感を感じられる人との繋がりがあるかどうかこそが絶対条件であるに違いありません。
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