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理解・判断には「感情」が挟まれるよね?という話。

みなさんは、例えば「タイ料理」と聞いて、どのような印象を持たれるだろうか?
私はタイ料理が好きで、独身時代にはよくランチでも行っていたし、今でも急に食べたくなる。特にパクチーの香りがたまらない・・・

ところがだ、結婚してから、タイ料理店に行くには家庭内稟議(つまり「妻の許可」)をとらなければならなくなったw

簡単に言うと、妻はスパイスの匂い、特にパクチーの匂いや味が大嫌いであり、かなり感覚が鋭敏なのか、スパイシーな料理を外で食べて帰宅すると「ん?何の匂い!?」と慌て出す。つまり、「そんな匂いを家に持ち込まないでほしい」というのだ。

だから、どうしても食べたくなったら、その旨を伝え、ちゃんと帰宅直後に匂いがうつらないようにすることを約束して、許可をもらう。不意打ちは嫌がられるからだ。

(1)あれ?タイ料理は嫌いじゃなかったっけ?

さて、そんな夫婦であるので、一緒に外食をする際にタイ料理店を選ぶことはありえない。

・・・はずだった

ところが、妻の実家の近くで外食をする機会があった。その時に、あてもなく歩きながら「気になった店に入ろう」という暗黙の了解で歩いていた時のことだ。

少し出遅れて、14時ちかくになっていたので、ランチタイムが終わっていて休憩時間に入っているお店も多かった。いわゆるランチ難民になりかけていた時のことだった。

一軒のタイ料理店が目に留まる。つい、習慣で店外に表示されているメニューをゆっくり眺めた時のことだ。

妻が「ここなら、入ってもいいよ」と。

あまりのことに、驚いたものの、許可を直接いただいているわけだから、気が変わらないうちにすぐ入店した。

注文をし終えた際に、どうして入店する気になったのかを尋ねた。

『以前、友達と一緒に入った店だから』

・・・店内はスパイシーな香りで溢れている。私も遠慮なくパクチーを食べる。
でも、妻は平気な顔をしている。

そう。つまり、「感覚」としては苦手な店なのだが(味・匂い)、友人とのおしゃべりや楽しかった記憶に意識が向かっているので気にならないのだ。むしろ、普段嗅ぐことがない匂いや雰囲気で記憶がより一層鮮烈になって、本人は嬉しかったのかもしれない。

「感覚」よりも「感情」が優先されることがある

妻のその時の状況を言語化するならば、こうなるだろう。おそらく、楽しかった思い出は実際の感覚を鈍らせるし、おそらく合わせ技の化学反応が起こっている。
普段は嫌悪感を覚えてしまう「匂い」が、特定の「場所」と結びつくと、化学反応が起きて「楽しい思い出」となった、という感じだろうか。

これが、嫌な思い出であれば、さらに匂いが嫌いになるだろう。
実際、私は牡蠣が好きなのだが、ある時に生牡蠣にあたってしまった。というよりも、時系列を意識してより正確に言うと、体調が悪くなりかけていた時に牡蠣を食べて、すぐに体調不良になってしまった。
おそらくは、牡蠣自体が悪かったのではないと思う。
しかし、食べた直後に気分が悪くなったので、私はそこに「因果関係」を見出してしまった。そこから、恐怖心が生まれ、生牡蠣は好んで食べることがなくなった。

これらは、最近話題の「認知バイアス」とも関わってくると思うが、それについては詳しくないので触れることはしない。

(2)「先生って東京出身ですよね?」で、クレーム発生

今度は、自分にとって都合の悪い方に解釈する例を挙げたいと思う。

私は、今ではeラーニングのプロデュース・ディレクターや教育ツール・商材開発というのがメインの仕事だが、以前はプロの塾講師だった。地方の進学塾で教えていて、その後、本社の研究所所属として全国模試の映像解説授業に出演したり、保護者向けセミナーの原稿を発信したり、全国模試のテスト設計を行ったりしていた。

塾で働いていた時の話だ。

私は、神戸出身で高校・大学は大阪で一人暮らしをしていた。生粋の関西人である。
ただ、両親がどちらも下関出身で、二人とも関西弁が薄い。だからなのか、家の中ではそこまで強い関西弁ではなく、標準語に近かったと思う。
また、大学院時代に某大手携帯電話通信会社のお客様センターでバイトしていたこともあり、ますますその傾向は強くなった。高校時代の友達や家族の前でなければ、ほとんど標準語で話していたのだ。

当然、就職してもそれは変わらない。
そんな中、和歌山への転勤となった。すると、いきなり「和歌山弁」の洗礼に合う。子供たちのイントネーションや言葉遣いにカルチャーショックを受ける日々。

そんな中、一人の保護者からクレーム電話が入った。

「この先生に授業をしてほしくない」

という内容だった。

だが、その生徒との関係性は悪くないと思っていた。だから、いきなり「担当変更」を言われる理由がわからなかった。

当時の上司が対応するも、「変更しろ」の一点張り。埒が開かないので、私自身が対応することになり、理由を尋ねてみた。すると・・・

「娘から、若い先生が来たと聞きました。私は指導実績のある先生に指導いただきたいのです」と。

当時、私は30歳。(大学院博士後期課程を出てから就職しているので。)どの程度の年齢とキャリアだったら認めていただけるのか・・・と思いながらも、「塾講師歴20年!」とかを期待されているのかなと「はあ・・・まだ30歳の若輩者なので・・・」と言うと、「え?大学生じゃないんですか?」と。

つまり、娘が言う「若い」という言葉から「イコール大学生」と解釈していてのクレームだったのだ。これによっても、評価語というのは人それぞれのイメージするゾーンというのがあるのだな、と痛感したが・・・それでもクレームは収まらなかった。一旦、年齢で納得した後も、クレームが続く。

ところが、その間でも生徒は楽しそうに通ってくる。

生徒自体が嫌がっているわけではない。なら、なぜクレームが続くのか・・・

改めてクレームが来た時に、ついに切り出してみた。「すみません、私だと何がダメなのでしょうか?」と。すると、ついに真相が・・・

「だって、先生って・・・

東京の方でしょう?私、東京の方は信用しないんです!」

「いえ、神戸出身ですし、最近まで大阪に住んでいました。生粋の関西人です」

この言葉でクレーム終了。なぜか保護者の方はホッとして「ならいいんです🎵」

それ以来、そのご家庭からクレームは来なくなったし、保護者による満足度アンケートでも悪くない評価をいただけた。

このような心理をどのように命名するか。

私は、「ゴキブリ発見心理」と冗談で名付けている。
つまり、ゴキブリが嫌いな人がたまに「いる!・・・やつがいる・・・」みたいにエスパーかニュータイプみたいなサーチ機能を発揮することがあるのだが、それに該当する。

常に、自分の嫌なものを避けようとすると、その嫌なことばかりが目についてしまう

この保護者に何があったのかはわからないが、東京人に対しての嫌悪感から、その危険性がある人を「排除」しようとした、ということだろう。

これは、「人」と「言動」の関係でも似たことがある。

例えば、嫌いな人がいくら良い内容の言葉を発しても、その言葉に価値がない(低い)とみなすようなことだ。ある人にとってはその言葉は「勇気が出る言葉」に聞こえるが、ある人にとっては「偽善的で扇動的な言葉」と聞こえる。

要は「感情」というフィルターを通して見るので、理性的な判断ができていないのだ。

オチは・・・?

今回、別にオチはない。ただ、このように感情が判断を鈍らすということ自体は頭ではわかっている人が多いのに、なぜに自分をコントロールできないのだろうか。

問題なのは、これが特に個人の思い出・体験というプライベートな領域に起因して、それが他の人には見えない(見えにくい)ということだ。

わざわざ言語化しない。する機会も乏しい。でも、個人の感情に起因することが所属しているチームや社会全体のミスコミニュケーションやパフォーマンスの低下につながることもある。感情は消せないかもしれないが、周囲に影響を与えることがあるというところには気を遣いたいものだ。



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