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戦争はイヤだ?

テレビ局の取材を拒否した老女の話

 既に故人となられているが、熊本に在住していた
   松尾 まつ枝
という方が、生前あるテレビ局から
   亡くなられた息子さんのこと
   で取材をさせてください
と言われたことがあるらしい。
 この方の息子さんである
   松尾 敬宇(けいう)
は、旧日本海軍の軍人(中尉)であったが、先の大戦初期に戦死されており、テレビ局は、その方の遺族として彼女を取材したかったのだろう。
 取材の趣旨は、旧日本軍の遺族を通して、反戦論調を作りたかったものと思われ、事前の打ち合わせで
   おばあさん、取材の途中で何
   を話されてもかまいませんが
   最後は、「戦争はイヤだ」
   と言ってください
と彼女に頼んだそうだ。
 するとまつ枝は
   戦争が好きな者はいません
   しかし外国から無理難題を
   言われれば、やらなければ
   ならない場合もあります
   戦争がイヤだと言うだけで
   日本が守れるでしょうか 
と言って、テレビ局の取材を断ったそうだ。

 この老女に、ここまで言わせた松尾中尉とはどのような方だったのだろうか。

松尾中尉(戦死後中佐)


 
 彼は、先の開戦初期に行われた作戦で、日本から遠く離れたオーストラリアまで潜水艦で近づき、2人乗りの小さな 特殊潜航艇に乗り換えて軍港内に入り、停泊中のオーストラリア海軍の艦艇に魚雷攻撃をするという、ほとんど生還の見込みのない決死隊に選ばれた一人である。
 その作戦に従事するということを聞かされた家族は「おそらく息子はその作戦で戦死する」と思ったのであろう。
 彼が日本を離れる前に、家族で送別の宴を催しており、 席上父親からは、もしもの時の自決用の短刀を、姉ふじゑからは千人針の鉢巻きを送られ、その夜はまつ枝が赤子のように彼に添い寝してやったという。
 
 家族との最後の時を過ごした後、彼はその作戦に従事して、遠路8000キロも離れたオーストラリア近海まで潜水艦で近づき、そこから特殊潜航艇に乗り込んだ。
 この作戦に従事したのは、松尾中尉ほか5名で、2名ずつ小さな特殊潜航艇に乗り組んで、敵の軍港であるシドニー湾を目指したのである。
 そして、それぞれ敵地の軍港内にひそかに侵入して、停泊中の軍艦に攻撃をしかけ一隻の艦艇を沈めたが、発見されて逆に爆雷攻撃を受けるようになり、松尾中尉はもはやこれまでと覚悟を決めて同乗の部下と艇内で拳銃自殺を遂げた。
 その後2隻の特殊潜航艇は、オーストラリア海軍によって引き揚げられているが、1隻はその所在が分からなかったものの、平成18年になって、シドニー湾近海の海底に着座しているのが発見されている。

引き揚げられた特殊潜航艇

 2隻の特殊潜航艇の中から松尾中尉はじめ4人の遺体を引き上げたオーストラリア海軍は、その勇猛果敢な軍人精神に敬意を表し、4名を海軍葬で鄭重に弔った。
 この海軍葬については、当初オーストラリア国内で反対の声もあったが、葬儀を進めたグールド少将は、ラジオを通して国民に
   このような特殊潜航艇に乗って
   死地に赴くような行為は、軍人
   として最高の勇気を必要とする
   ものである
   我々は、このような軍人がいる
   国と戦っているが、我らオース
   トラリア国民に、彼らの1000分
   の1の勇気でもあるだろうか   
と訴え、国民を鼓舞したらしい。
 この海軍葬は、国民の戦意高揚のためのものであったかもしれないが、戦時中に敵国の兵士を顕彰する精神も見上げたものである。
 自国を愛する気持ちと自国を守ろうとする勇気に国境はないのだろう。

 戦時中であったが、彼らの遺骨は、戦時交換船により日本に送り届けられて、家族と無言の再会を果たした。
 出迎えの人の中には松尾中尉の婚約者であった人の姿もあったという。
 
 戦後、まつ枝はオーストラリア海軍の招待で、現地での海上慰霊祭に参加した。

慰霊祭に参列したまつ枝


 その時まつ枝は83歳であったが、そのことは現地の新聞等で
   勇者の母がやってきた
と大きく報道されたらしい。
 そして彼女は海上にて
   南海(みんなみ)の
   有志の霊に捧げむと
   心をこめん ふるさとの花
と詠んで、日本から持参した花を海上に投げ入れて慰霊したという。
 その後まつ枝は、息子の遺品が納められている連邦戦争記念館を訪れた。
 そこで、ランカスター館長から松尾の遺品である血染めの千人針を渡された。
 それは、最後の宴の時に姉ふじゑが渡したものであった。
 まつ枝は、その千人針を握りしめて、全身を震わせてハンカチで目をおおって泣きくずれた。
 それを見て、館長も鳴きながらまつ枝に手を差し伸べ、その肩をやさしく抱きしめたという。
 この時の気持ちを、まつ枝は
   吾子(あこ)の香の
   移りし布のしのばれて
   温めずやと待ちにしものを
と、歌に詠んでいる。
 最後の夜に息子と添い寝した時のことを思って詠んだのであろう。
 これが、子を思う母の本心だったのだろう。
 しかしその後の記者会見で、ある若い記者から
   お母さんは最愛の子供を
   失ってさぞ寂しいでしょう
と尋ねられると、気丈にも
   日本では、国に忠義を尽くす
   ことが本当の親孝行になるの
   です
   私の子供は大きな孝行をして
   くれました
   少しも寂しいとは思いません
   心から満足しています
   そしてもしあなた方が非道な
   ことを日本にしかけたら
   日本はまた立ち上がりますよ
と言って、その記者を黙らせたらしい。
 親子の愛を超えてでも国を愛する気持ちというものがここにある。
 オーストラリアで語った彼女の言葉は、現地では称賛をもって報道されたものの、日本で報道されることはなかった。

 昭和55年、95歳になったまつ枝は、ベッドから起き上がると、介護についていた孫に
   紋付の羽織を出してもらいたい
と言った。
 そしてその羽織に着替えさせてもらうと、孫にこれまでの介護の礼を述べると
   どうやらお迎えが近いようじゃ
と言って横になり、その翌日永眠した。
 武人の母として、凛とした最後であった。

 熊本の山鹿市にある松尾中尉の墓には、日本とオーストラリアの2枚の国旗が掲げられている。
 生前まつ枝がオーストラリアを訪問したことにより、地元の鹿本町(現山鹿市鹿本町)とオーストラリアのクーマ市が姉妹都市締結を行ったことにより交流が生まれたことによるものである。
 まさに松尾中尉とその母が示した、国を守るということの誇りと勇気が、戦後になって平和の実を結んだものと言える。
 過去に干戈を交えた(戦った)とは言え、勇者を讃えるということから生まれる平和もあるのである。

 ここまでのことを報道してはじめて真の平和を再考する番組ができるのではないだろうか。
 ただ「戦争はイヤだ」と言わされるだけの本質を見抜いたまつ枝は
   誰もが命を落とす危険のある
   戦争に行くのはイヤだ
   でも私の息子がその戦争で
   亡くなったが故に今の平和が
   あるのですよ
ということを伝えて欲しかったのだと思う。
 そろそろ日本のメディアも、平和を作るための礎となった人たちの真の姿を伝えることが、これからの日本を守って行くために大切だということに気づくべきではないだろうか。
 周囲の安全保証環境が厳しくなってきている今、いつまでも「平和が大切だ」と空念仏を唱えるだけでなく、現実を直視したうえでの平和論を醸成してほしい。 
 最後に、まつ枝が息子のために詠んだ歌を2つを紹介したい。
 過去の日本には、このような毅然とした気持ちで先の大戦を生き抜いた大和撫子がいたのだ。
 そして、その先に今の我々が平和に暮らしているのだ。

   君がため
   散れと育てし花なれど
   嵐のあとの庭さびしけれ

   靖国の
   社(やしろ)に友と睦むとも
   折々かへれ母が夢路に

松尾中佐の墓



松尾中佐の墓の近くにある記念碑(和文)


英文の記念碑
墓の近くにある日豪の国旗





   




 
 
 

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