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未来永劫残るものとは

通潤橋~祝・国宝

 先日11月中旬に、以前から一度行ってみたかった
   熊本県上益城郡山都町
にある「通潤橋」を見に行った。
 この橋については、以前投稿した「平和の架け橋」でも紹介したが、今から170年も前の江戸時代である嘉永7年(1854年)に建造された日本最古の水路橋である。
   

    また今年9月25日には、土木建造物としては全国で初めて国宝に指定されたが、今も付近一帯の農業用水路として機能している。
 2016年の熊本大地震や、その2年後の大雨でダメージを受けたものの、修復されてなお現役なのである。  
 その耐久性に優れた構造は、日本人のものづくりの技術の高さを垣間見る思いであるが現在のように土木機械などいっさいなかった時代を思うと、当時の石工たちの労苦は並々ならぬものであったろう。

 ただそうは言っても訪れる前までは
            橋と言っても人や車が
            通るものでもない田舎の 
   農業用水路だし・・・
   人もそんなに多くないだろう
と高をくくっていた。
 
 ところが実際行ってみると、通潤橋の前は道の駅もできており、平日であるにもかかわらず、大きな駐車場には県外ナンバーの車はたくさん駐車しているや、ツアーバスに乗ってきた観光客はいるや、地元と思しき小学校の遠足のグループはいるや、満員盛況の状態であった。
 おまけに空を見上げれば、ヘリコプターが上空を飛んでおり、聞けば通潤橋を空から見下ろすツアーということ・・・
 すっかり人気の観光スポットという感じであった。
 さすが国宝指定の効果は絶大なものだ。 
 また人が多かったのは、毎日定時に行われる橋の中央部からの放水の時間だったこともあったのかもしれない。
(石造りアーチ橋のなかで唯一「放水」ができる橋らしい。)

放水に歓声をあげる小学生たち

 歴史を顧みれば、この橋の工事は地元の惣庄屋(今で言えば町長的立場の人)であった
   布田 保之助(ふた やすのすけ)
が、水源に乏しく水不足に悩まされていた農民の窮状を救うために立案し、細川藩から借財までして、熊本八代の著名な石工技術者集団を招いて行ったもので、工事には近隣農民がこぞってその建設作業に従事したらしい。
 橋は1852年(嘉永5年)12月に工事が開始され、約1年8月の工期を経て1854年(嘉永7年・安政元年)8月に竣工したが、完成時に石橋の木枠を外す神事には、布田は白装束を身にまとって懐に短刀を忍ばせて橋の中央に鎮座したそうだ。
 また石工の棟梁も布田同様、短刀を懐にして臨んだらしい。
 二人とも橋の通水が失敗に終われば、責任をとってその場で切腹するつもりだったとか・・・
 
 江戸時代には「士農工商」という峻烈な身分制度があった。
     このため惣庄屋といっても身分は農民であり、石工の棟梁でさえ、その下の「工」にすぎないが、当時の人はこのような気概を持っていた。
 身分の違いはあっても、切腹つまり究極の責任の取り方というものが、決して「士」のものだけではなかったことが伺われる。
 現代でも責任を取る際に「腹を切る」という表現は使うが、昔の人は本当に自分の命で責任をとるつもりで仕事をしていたのだ。
 これこそ日本の誇る武士道精神でもある。

通潤橋近くに立つ布田保之助の像

 この石橋作りの技術というものは、もともとはオランダから伝わったものであるが、通潤橋はそれを土台としながらも、麻や海草などを混ぜ合わせた日本独自の防水性能の高い「漆喰」を取り入れて、水圧で通水管から水が漏れるのを防ぐという画期的な手法で工事を完成させている。
 海外から取り入れた技術であっても、それに安寧とすることなくさらに一歩進んだ技術に発展させる。
 ここが日本人の素晴らしいところである。

   ちなみに余談であるが、かつてポルトガル人は乗っていた船が種子島に難破した際に火縄銃を伝えたが、この時現代の価格でなんと
   一丁5000万円
という破格の値段で二丁も買ってくれたことに味をしめ、数年後に200丁あまりを携えて再来日したところ、日本人は既に銃そのものの国産化に成功しており、おまけにそれは彼らが売りさばこうとしたものよりはるかに高性能なものに変貌を遂げていたらしい。
 あまり知られていないことであるが、日本がこの技術力の高さで急速に世界的レベルの銃保有国になったことが、当時アジアで進んでいたヨーロッパ諸国による植民地化の危機を結果的に防いだことになる。
 「備えあれば憂いなし」という格言が示すように、いつの時代も国防の基本は備えなのだ。
 「平和が大事」と念仏を唱えるだけでは決して平和は守れない。

 なお石橋というと、何とも古風な前近代的な土木建築物だと見る人が多いと思うが、前述のとおり、およそ170年も前のものがいまだに使われているということと、現代の鉄筋コンクリートを多用した建造物がそこまで耐用年数がないことを比べた時、はたしてどちらが未来に残せる遺産と言えるだろうか。
 鉄というものは、どうしても酸化して劣化するものらしく、鉄筋コンクリートの建造物の耐用年数は、もって6,70年らしい。
 産業革命以降の人類の英知の結晶のひとつともいえる製鉄技術も、長い人類の歴史で考えれば、歴史的価値はほとんどないものと言える。

 そういえば、古代ローマの宮殿跡、中国の万里の長城跡、エジプトのピラミッドなど、未だにこの地上に残っているものは、紀元前後のはるか昔からある石造建造物である。

 そのような未来永劫残せるもののひとつとして、通潤橋が国宝に加わったことはまことに喜ばしいことである。

 また、この「通潤橋」というネーミングのセンスも秀逸であると思う。
 この名前は、当時肥後藩の藩校であった「時学館」の教導師を務めた
   真野 源之助
が易経という古代中国の書籍からとった一節である
   澤在山下
   其気上通
   潤及草木百物
つまり
   澤は山下に在り
   その気上に通ず
   潤い(うるおい)は
   草木・百物に及ぶ
から名付けたものらしい。

 日本人のものづくりに対する気概を示すもの、世界に誇る歴史的建造物のひとつとして記憶にとどめ、未来永劫「潤いを通す橋」として残ってほしい。
    さしずめこちらは
            備えあれば潤いあり
か。

 追記
 今年最後の投稿になりました。
 1年間私の拙い投稿を読んでいただいた多くの皆さまに感謝申し上げます。
 皆さまどうかよいお年をお迎えください。
 ありがとうございました。
 そして来年もよろしくお願いいたします。

行く年くる年に感謝

 

 

 
 


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