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映画『ノルマル17歳。―わたしたちはADHD―』

 愛媛での先行上映に続き、東京でも公開された映画『ノルマル17歳。―わたしたちはADHD―』(2023年、日本、北宗羽介監督、80分)。公開二日目の2024年4月6日、アップリンク吉祥寺で見てきた。
(※ネタバレが気になる方はお読みにならないことをお勧めします。)

途中までのあらすじ

 朱里(じゅり、鈴木心緒)の部屋は散らかっている。整理整頓は苦手らしい。就寝と起床の時間もばらばらで、学校には行ったり行かなかったりだ。朝早くに目覚めても、メイクに時間をかけすぎて遅刻する。登校しても、授業をおとなしく聞いていられない。
 絃(いと、西川茉莉)は真面目な性格だが、過度に集中すると時間の観念を喪失する傾向がある。試験勉強をしていると、いつの間にか夜中の2時を過ぎている。翌日の試験科目と開始時刻を入念にチェックしたのに、目覚まし時計をかけ忘れ、寝坊のせいで遅刻する。
 絃は学校に行かず、見知らぬ公園のベンチに腰掛けてぼんやりしている。そこへ朱里が通りかかり、隣に座って絃に話しかける。しかも、あっけらかんと自分はADHDだと言う。朱里のいきなりのカミングアウトに驚く絃。ここから二人の交流が始まる。
 朱里は絃を連れ出して、見晴らしの良い丘に登ったり、商店街の馴染みの八百屋に立ち寄ったりする。絃にとっては未知の世界だ。絃は自分もADHDであると明かす。言い出すタイミングを逃していたが、朱里には打ち明けようと思ったのだ。周囲に公言している朱里とは異なり、絃はADHDであることを家族以外には伏せている。
 このまま二人のあいだに友情が育まれてゆくかと思われたが、ある日、二人でいるところを仕事帰りの絃の母に見つかる。気をつけさえすれば娘は何でもちゃんとできる子だと思いたい母にしてみれば、派手な身なりの朱里は娘に悪影響を与かねない。有無を言わせず、母は朱里との付き合いを絃に禁止する。絃は言い返せない。
 家族とギクシャクするのは、朱里も同じである。厳格な父や優秀な姉とは衝突が絶えない。朱里は次第に引きこもる。
 級友との関係がうまく行かない絃は、朱里のことを忘れてはいなかった。意を決して、行動を起こす。そして――
 ここから先の展開は、伏せておこう。続きは見てのお楽しみ。

ADHDもいろいろ

 『ノルマル17歳』は、二人の高校生に焦点を当てる。見た目は対照的で、共通点はなさそうだ。しかし、その二人がともにADHDと診断されている。
 私自身はADHDについて詳しく知っているとは言えない。そういう「よく知らない人」が抱くイメージに合致するのは、何と言っても朱里のほうだ。授業中なのに大きな声で話したり、感情を爆発させてぶち切れたりといった言動は、いかにもという感じがする。「注意欠如・多動症」という日本語での言い方も、「落ち着きのなさ」を思い起こさせる。
 一方、おとなしい絃には衝動的なところは見られない。勉強はできるし、親に対して反抗的でもない。この子が発達障害であるとは、なかなか気づけない。そう言われた後でも、「本当にそうなの?」と疑ってしまいそうだ。だからこそ、絃のようなタイプは自分一人で抱え込みやすい。
 ADHDにもいろいろあることを示したのが、この映画の最大の功績だろう。

家族もいろいろ

 ADHDの当事者がいろいろなら、その家族もまたいろいろである。当事者がこの映画のように高校生くらいの年ごろであれば、親の向き合い方がとくに重要だ。理解しようとしない親もいれば、無関心な親もいる。自分を責める親だっているだろう。もちろん、ありのままを受け止めてくれる親だっているはずだ。
 映画では、当事者の家族として五人が登場する。朱里の両親と姉、絃の両親である。せっかくこれだけの数がいるのだから、家族の接し方にはもう少しバリエーションが欲しかった。たとえば、ある親は否定的だった自分の考え方を改めたり、別の親は依然として現実を受け入れようとしなかったり、最初から無条件にADHD当事者を受け入れてくれる家族がいたり、という具合に。そのためには家族の物語も丁寧に描かなければならず、80分の尺では難しかったのだろうが、もったいない気がする。

印象に残ったシーン(1) 初対面の絃にいきなり話しかける朱里

 上でも触れたように、ADHDについての私自身の知識は十分ではない。そのため、主人公たちの言動に不自然さを感じる場面もあった。たとえば、朱里は知り合いでも何でもないよその高校の生徒に、いきなり話しかける。普通はそんなことはしないだろう。しかし、ここで朱里が声をかけないと、絃とのあいだに関係が生じない。物語の都合上、それでは困る。だからと言って、これはちょっと強引ではないだろうか。――とまあ、上映中の私はそんなところに引っかかりながら、どうすれば朱里の言動は説明がつくのかと考えていた。
 朱里は嬉々として街のあれこれを絃に説明する。そこから分かるのは、朱里の観察眼がとても鋭いということだ。ふだんならこの時間帯に公園にどんな人たちがいるか、よく知っている。だから、絃の存在を見過ごさないし、気になるのだ。気づける才能があると言ってもよい。そして気になったら、考えるより先に声が出る。たぶん朱里はそういう人なのだろう。

印象に残ったシーン(2) 本屋の中をさまよう絃

 中盤を過ぎた辺りだっただろうか、絃は本屋に行く。最初は「メンタル」のコーナーに行き、本をパラパラとめくっている。しばらくすると別のコーナーに移り、そこでも同じように立ち読みする。ついに「旅行」のコーナーに辿り着く。どの本を手に取っているときも、絃は夢中になっている。この間、カメラは絃を追うだけで、台詞は一つもない。観客の私は、絃がついうっかりお金を払わずに店を出て行ってしまうのではないかとハラハラしながら見ていた。
 最後のほうで、絃が旅行の本を買った理由が明かされる。と同時に、絃のADHDの特性も浮かび上がる。何かにのめり込みやすく、気づいたらもともとの考えとは違う方面に行ってしまうのだ。個人的には、ここの見せ方がいちばん気に入った。


啓発の難しさ

 ADHDを含めた発達障害については、社会の理解が進んでいるとは言いがたい。障害者差別解消法の改正に伴って合理的配慮が義務化されるなど、社会は動きつつあるが、まだ不十分である。何かを変えようとするとき、声高に主張しても効果は限定的だ。その点で、映画のようなエンターテインメント作品は目を向けてもらうきっかけになりうる。
 しかし、映画が映画として成立するためには、啓発一辺倒になってはならない。物語としての面白さがあったうえで、なおかつADHDを取り巻く諸問題を伝えるには、どうすればよいのか。
 ここで立ちはだかるのが、映画の観客の予備知識をどの程度に見積もるかという問題である。観客の中には、ADHDについてほとんど何も知らない人もいれば、詳しく知っている人もいる。当事者や関係者もいるだろう。知らない人を置き去りにしないように、ある程度の説明は必要になる。その一方で、説明が過剰になると、それがうるさく感じられる。その辺のさじ加減は難しく、どれが正解とは決められない。

「普通」とは何か

 大きく言うと、この映画が問いかけるのは「普通とは何か」という問題である。他の人たちが「普通」にできることが、ADHDだとできなかったり、とても難しかったりする。それは本人のせいではない。本人にはどうすることもできないのだ。
 だから、自分の「普通」を他人に押しつけないようにしよう。そういうメッセージを、この映画から受け取ることができる。できれば、私もそうありたい。しかし、自信はない。自分の周りに「ちょっとずれた人」がいたら、相手を傷つけたり苛立ちを示したりするかもしれない。たとえば、授業中にいきなり的外れな質問をする学生がいたら、教師の私はムッとするかもしれない。普通はそんなことはしないだろう。――注意深い読者は、この言い回しが二度目であることに気づいたにちがいない。朱里が絃にいきなり話しかけるシーンについて、私はそう書いた。「普通はそんなことはしないだろう」と。もちろん、わざとそう書いたのだ。自分の中に根づいた規範意識がそうやって「普通」を振りかざす可能性を感じたからである。
 それでも、こういう可能性があることを知っているだけでも、少しはマシになるのではないかという期待はある。
 (「普通」をめぐっては、「ノルマル」というフランス語の読み方を思わせる表記についても書こうかと思ったのだが、長くなりすぎたのでやめておく。)


舞台挨拶

 アップリンク吉祥寺では、4月5日から7日にかけて、舞台挨拶が行われた。およそ舞台挨拶というものが私には初めての体験で、ふだんは人気のない最前列が真っ先に売れていたのが、当然とはいえ新鮮だった。

『ノルマル17歳』の舞台挨拶(2024年4月6日11時20分からの上映会の後、アップリンク吉祥寺)


西川茉莉さんへのエール

 絃を演じた西川茉莉さんは、中学高校を通じての友人(同期生)の娘さんである。その応援のために『ノルマル17歳』を観に行ったというのが正直なところである。
 西川茉莉さん、あなたの目の前には新しい世界が開けています。あえて言います。頑張るな! 映画の中の台詞にあったように、「適当に、ほどよく」楽しんでください。

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