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人生甘くないよ!たけし日本語学校奮闘記 第3話「無力」

2003年9月1日、西アフリカベナン共和国で「たけし日本語学校」を開校しました。開校から今日まで、いろいろな事がありました。
育った環境も違えば、年の差も15歳離れているベナン人と日本人の2人が、「たけし日本語学校」という1つの夢に向かって進む珍道中を数回にわけて書き進めたいと思います。
※この話はすべてノンフィクションです。

前回の内容

「たけし日本語学校」をつくる前に、両国に大使館がないと、ビザの取得も難しいため、まずは日本にベナン共和国大使館を設立するために動き始めました。そして2002年11月18日、日本にベナン共和国大使館が設立されました。いよいよ「たけし日本語学校」の開校に向けて2人は動き始めます。

アフリカで日本語教育はニーズがあるのか?

2002年、ゾマホンさんがベナン共和国大使館の設立にむけて都内をかけまわっている一方で、僕は都内の日本語学校に働きながら、「たけし日本語学校」設立の賛同者を集めようと、ゾマホン講演会を企画しました。講演会集客のために、日本語教育、国際協力をさかんにやっている大学や、アフリカで活動をしている非営利団体など、だいたい60カ所くらいまわりました。

講演会のチラシを受けとってくださるだけのところもあれば、「なんで、アフリカで日本語教育なんですか?」「ベナンは日本との経済交流がほとんどないのに、日本語のニーズはないでしょ。」「ベナンの公用語(フランス語)の識字率が低いから、まずは公用語の識字率をあげることからでしょ。日本語の前にフランス語ですよ。」など、厳しい意見ばかりでした。

厳しい意見はありがたいのですが、なかには怒る方もいました。

「ベナンで日本語を教える?あなたは戦前の日本のようにベナンを植民地にしたいのか。」

「日本語を広めるということはアフリカの人々への同化政策だ」

「ゾマホン?タレントの?売名行為でしょ。」

希望をもって動き始めた「たけし日本語学校」ですが、設立前にすでに土俵際まで追い込まれた感じがしました。
(あ~どうしよう・・・・)

日本人として、ベナン人として

何を言われても、僕自身、経験も知識も実績もないので、相手の言葉を受けとめることしかありませんでした。ただ1つだけ感情的になってしまうことがありました。

それは日本の歴史についてでした。

「ベナンの公用語(フランス語)の識字率が低いから、まずは公用語の識字率をあげることからでしょ?」「グローバル社会なんだから日本語よりフランス語を習得できる方がベナンの人たちには大事だよ。」

これを言われると、「あなたはそれでも日本人なのか?」と声を出してしまいそうでした。

感情的になってしまうのには理由がありました。まずベナンには多種多様な民族の言葉があるにもかかわらず、フランス語のみを公用語としていることに、ゾマホンさんは反対しており、そのゾマホンさんに対して、日本人が「グローバル化のためにはフランス語をだよ」と語るからです。そして、実は日本もかつて国際化のために「英語公用語化」が真剣に議論され、結局は日本語を国語にしたという歴史的事実があるからです。

「英語公用語化論」と「弘道館」

時は明治、国際社会の流れに遅れまいと当時の文部大臣である森有礼が「英語公用語化論」を推し進めたことがありました。森文部大臣は英語の公用語を推進しようとイェール大学のホイットニー博士に助言を求めたところ、逆にホイットニー博士からいましめられたという話がのこっています。(詳細を知りたい方はぜひ、検索してみてください)もちろんこの史実はゾマホンさんも知っていました。

ゾマホンさんからすると、グローバル化のためにフランス語を充実すべきだと日本人にいわれたら、「母語である日本語を守ったまま、国際社会での地位をきづいてきた日本人にだけは、そんなこと言われたくなかった。」と思っていたのではないかと思います。僕にとっては、そんな歴史も知らない人に、頭ごなしに否定されるのがとても恥ずかしくもあり、不愉快でした。

歴史を全部知ることは無理ですが、知ろうとする姿勢はなくしてはいけないなといまでも思います。

ただ、この歴史に対する悔しい経験が、その後「たけし日本語学校」のビジョンをつくっていく過程で、”鍋島藩の藩校「弘道館」を模範にしよう。”という発想にもつながっていきました。
※「弘道館」については別の回でまた書きたいと思います。

無力だよ

ゾマホン講演会まで日がないなかで、申し込みはほとんどありませんでした。インターネットに告知したり、FAX作戦などをしましたが、思ったようには集まりませんでした。人脈もないので、時間をみつけては飛び込み営業の日々でしたが、相変わらず手痛い返り討ちにあって、とぼとぼ帰宅する毎日でした。

そんなある日、台東区上野あたりの学校や事務所をまわっていました。その日も同じように叱責をうけました。とぼとぼとJR上野駅にむかって歩いていました。歩道橋を渡り始めたところだったとおもいます。なぜか突然悲しみがおそってきました。

「僕はいったい何をしているんだろう。」と一瞬よぎると、涙が止まらなくなりました。

お金もない。理解も得られない。カバンは重く、中にはゾマホン講演会のチラシが大量に入っていました。急にむなしくなりました。
両親には大学4年の時に「アフリカに学校を作るから、富山には帰らないよ。」伝えると、母が「富山に帰らんと、遠い国に行ってしまうがけ?」と電話もとで泣かれてしまったことがありました。その時の母の声がずっと耳に残っていました。僕はJR上野駅近くの歩道橋で、人目もはばからず泣いてしまいました。僕には何もない。何もできないんだ。そう思いました。

ゾマホンさん「ごめんなさい」

僕はゾマホンさんに対しても申し訳なく思い、後日ゾマホンさんに会ったときにあやまりました。

「ゾマホンさん、すみません。僕、なにもできてません。」

するとゾマホンさんが笑って
「あやまることないよ。何もできないなんて嘘です。あなたは中学校は卒業しているでしょう?中学校までの知識があれば、世界の人々を助けることができますよ。だって世界には小学校にすら行ってない人がたくさんいるんだから。何もできないなんて言わないでください。そんなこと言われたら学校に行きたくても行けない世界の人たちががっかりします。」

僕はこの一言に救われました。いまでもそうです。
大丈夫。僕は学校に行ったことがある。それだけでも恵まれている。
無力だなんて思わない。探せば何かできるはずだ。

「たけし日本語学校のことは、いまは理解されなくてもいい。ただし結果をだせば必ず理解してくれる人はでてくるはずだ。」

そう考えなおし、講演会当日まで集客にはげみました。

いよいよ講演会当日、会場にはなんと100名近くの人が集まってくれました。その中には僕の大学時代の剣道部の師範まで来てくださいました。
会場をお客さんでいっぱいにすることはかないませんでしたが、それでもこの人数は僕にとって大きなはげみになりました。

2002年7月6日、ゾマホン講演会

これが「たけし日本語学校」設立にむけて、僕の一番最初で、一生忘れられない仕事になりました。

体験をとおしての気付き

・中学校まで卒業しているなんて恵まれている。感謝。
・いま自分の身近に理解者や友達がいないから孤独だなんておもわなくていい。世界のどこかに理解者や友達はきっといる。
・否定されて感情的になるのは、どこかまだ自分の中でも迷いがある証拠。迷いがなくなるまでトコトンやるか、その前にきっぱりやめるかのどちらか。
・あ~やっぱり人生は甘くない。

(つづく)

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