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多分日記 その一

毎日小説をこしらえてはいるが、何も思い浮かばずに文を打ってみても毒にも薬にもならない、ただただ文字の連続を打つだけの日というのがある。
それがまさしく今日なのだ。

なのでそんな日はたまには日記でも付けるのも良いかと思い、こうして書いている。
大昔の作家達は文章そのものの芸術性が高く、今で言う日記ですらも作品の一つとして数えられている。

僕の場合は平々凡々並以下の気まぐれ人間なので、その類には入れないことはもちろん、これを書いて何かを伝えたい意思もなければ、小説を書きつつも訴えたいことが何もない、という稀有な物書きの端くれである。

書きたいと思えるタイミングは何かと考えていると、それはいつも理不尽に対する怒りであるように思える。
腹立たしければ腹立たしいほど、書きたくてたまらない気持ちが湧き上がって来るのだ。

逆に喜びや希望を感じてみても、それは個人の心として感じ得るものであって、それを作品に変えようという気持ちにはならないから不思議なものだ。
そんなことを書きながら、今から全く関係のないことを書こうとしてる。

先日。群馬のある山奥の県境にその昔は鉱山があり、昭和の最盛期には二千人余が暮らしていたという記述を読んでいた。
今はその影を遺すのみで人っ子ひとりおらず、通行するにも注意が必要な場所になっている。

昭和は時代にしても、物理的な人の移り変わりにしても、激しい時代であったことを物語る歴史の一片だと感じた。

今は人影もない場所で生まれ、そこで育った人達はどんな想いで荒廃を通り越して野晒しになった景色をその目に映すのだろうと思案してみた。
当然そんな経験はないので想像するだけで当該の感情の片隅も理解出来るはずもなく、考えることをすぐに止めた。

物の考えで先を考えることをすぐに止めてしまうのは、答えが出ないという経験則に基づいたもので、これは時々物書きとしては致命傷のようにも思えることがある。
無駄なものを省いて正しい答えを最短で導こうとする進化はある種の退化であり、何処にもたどり着けぬような想像の迷い道にこそ愉しい景色があったりもする。

そう考えてみると、子供らは想像の達人だ。
大人になると紙粘土のようにある程度固め切った考えが時間の経過で徐々に硬化していってしまうが、子供の想像は何とも柔らかく、いくらでも姿形を変えて行く。

数年前、保育園に通っていた甥っ子が「警察官になりたい」というのでその理由を尋ねたことがある。
彼は自信に満ちた顔で、こう答えた。

「警察官になって、しょう君(いじめっ子だ)を、射殺する!」

保育園児の口から「射殺」という単語が出て来たことに大笑いしたものの、警察官になれば公然と人を殺せる!と判断したその物騒さに、血のようなものを感じた。

ちなみに今も彼の発言の物騒さは健在だが、学校ではえらく大人しい児童らしい。
たまに会って小遣いを渡すと照れ臭そうに笑いながら、礼を言うタイミングで突然ぶっきら棒に「ありがと」と言う辺りも、何となく気持ちは分かるので何も言わないでおくことにしている。

そろそろ、雨が降りそうだ。
雲がくすみ始めて来た。
こういう時にはすぐに翌日の天気や洗濯をいつしようか、ということばかりが頭に浮かんでしまう。
たまには違う方向に頭を動かしてみて、雨の中を散歩するのはどうだろうかと自分に尋ねてみたくもなる。

想像のピストルはいつも空砲で、誰かを射殺することはない。
だからこそ、雨の中に向けて一発撃ってみるのもたまには良いかもしれないと感じながら、今日の日記らしきものを終えることにする。

2024年3月28日

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