見出し画像

❖足元美術館XXXⅡ(引いても足しても生まれる美)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2024年3月29日)

【記事累積:1989本目、連続投稿:922日目】
<探究対象…美、労働の意味・価値、掃除、ゴミ、護美と悟美、ジャムおじさん、ニール・A・マックスウェル>

本日ご紹介する足元に展示されていた美術作品のタイトルは、「引いても足しても生まれる美」である。一体どんな作品なのだろうか。

空港とラオス中心部を結ぶSouphanouvong Aveという大きな通りには、ひときわ目につく建物があります全体的に紫色の外装と大きな赤い十字架がトレードマークである。これは Nakham Evangelical Churchという福音派教会のようだ。いつも空港に行くときや、ビエンチャンに戻ってきて家に向かうときに目に飛び込んでくる。ラオスは上座部仏教の国なので、教会はそこまで多くない印象ではあるものの、この教会はインパクトがあるので、たいていの人が見た記憶があるだろう。

本日の作品はそのNakham Evangelical Churchの近くに展示されていた。教会の反対側の歩道を歩いていると、周囲をホウキで掃いた「成果物」が集まっていた。成果物などと大げさに表現しているが、普通に考えると単なる「ゴミ」である。この近くの人がホウキで掃いて集めたのだと思う。

このようなゴミをあえて成果物と表現したのは、そのように集められたものは、誰かの貴重な時間と労働力を費やした結果であり、またそれは何のために集められたものなのかという目的も含めて、一定の価値を感じたことが関係している。さらには実際に集められたものを眺めていて、その姿から伝わってくる印象にも或る種の価値を感じたからなのである。

これを単にゴミと表現してしまえば、そこには無価値に近いものが固まっているだけと思い込んでしまうだろう。しかしそれらが風や雨によって偶然に集まってきたようなものでないのならば、必ず誰かがそれらを集める労働をしたのであり、その結果ということになる。そう考えると、そこに集まっているものを無価値だと考えてはいけないような気がしたわけである。

「一生懸命がんばったり、働く人の流す汗は、とても美しいものなんだよ」
これはアニメ『アンパンマン』に登場するキャラクターのジャムおじさんのセリフである。

この言葉は、労働は生きるためのお金を手に入れる手段だけではなく、労働そのものに価値があることを示している。そして労働と真剣に向き合っている人の姿はとても活き活きとしていて、その生き様には美しさが伴っているのだと思う。私は先日見た歩道の成果物についても、私は同じような感覚を持った。対価が得られるものかどうかは別として、誰かがホウキで周囲を掃いたわけだから、そこには労働という事実がしっかりと存在している。そしてその労働と表裏一体にあるのが歩道に集められたものなので、労働というものに価値があるのならば、この集められたものにも価値は及んでいるだろう。

「労働は、たとえ経済的には必要なくとも、霊的には常に必要なのです」
これはアメリカの教育者・宗教指導者であるニール・A・マックスウェルの言葉とされている。

ニール・A・マックスウェルの言葉に基づけば、労働そのものの価値というのは、経済的なものだけでなく、生き甲斐・やり甲斐や自分自身の存在証明と繋がる霊的(精神的)なものでもある。ここからホウキで掃くという労働と、それによって集められたものとに関わる価値というのは、後者のような「霊的(精神的)で主観性と強く結びついた価値」なのではないか。

またどうしてホウキで掃いて集めたのかという目的に注目してみると、今度は異なる価値に気づかされる。一般にホウキで掃いて何かを集めるという行為は、その空間を綺麗にする・美しさを保つためのものである。そう考えるとホウキで何かを集めることは、「美しさを護る」行為となる。つまり「護美(ゴミ)」なのだ。だから「護美(ゴミ)」という行為の目的は、人々が気持ちよくその場所を利用できるようにするためであり、「公共性に関わる価値」の高さが感じられる。それは先ほどの労働自体との関係と同様に、「護美(ゴミ)」という行為と集められたものは表裏一体であり、「護美(ゴミ)」という行為の価値の高さが、集められたものにも及んでいると思われる。

さらに、足下に集められていたものにはここまで述べてきたものとは別の価値もあった。集まっていたものを眺めると、ジュースのパックやプラスチックのコップなどもあるが、大部分は白色と赤色のチャンパー(プルメリア)の花びらや緑と茶の落ち葉である。そして花びらや落ち葉の色が主導権を握っているためか、パックやコップの色も巻き込まれる形で、色の調和が成り立った円いコサージュとして「美しさという価値」を持っていた。足元にあるのは、一般的には「ゴミ」と呼ばれるもののはずなのに、偶然の重なり合いがそれを「美だと悟らせた」のである。つまりこれは「悟美(ゴミ)」だった。

以上のように、もともと色んな場所に散らばっていたゴミをホウキで掃いて集めることは、ゴミを取り除き「美を護る」行為である。そう考えると、美を護る行為としての「護美」は「引き算による美の発生」と言える。そして一般的にはゴミと結びつかない印象を、私は先日見たゴミに追加的に「美を悟る」という形で抱いた。つまりゴミを美しいものと悟る「悟美」は「足し算による美の発生」と言える。ここから今日の作品のタイトルは、「引いても足しても生まれる美」だったのである

ちなみに「ホウキ」はラオ語で「ດອກແຂມ(ドックケェーム)」という。タイ語では「ไม้กวาด(マイグワート)」になる。

#この街がすき   #旅のフォトアルバム
#探究   #探究学習
#哲学   #ジャムおじさん   #ニールアッシュマックスウェル
#ラオス   #ビエンチャン

この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?