見出し画像

【一人で勝手に旅気分】255

(過去の旅についての振り返りです)
★ 靴を脱ぐことは「物質的な汚れ」を防ぐための行為ではなく、「精神的な汚れ」を拭うための行為(2019年10月10日)

<探究対象…宗教、文化、人間と動物>
4年前、インターナショナルスクールのタームの切り替えで大型連休があり、そのタイミングを利用してインドのボランティアキャンプに参加しました。ボランティア活動が行われるのは、ニューデリーよりも北に位置しているカルカという町からさらにヒマラヤの山奥に入ったところでしたが、せっかくの初インドなのでタージマハルも見学したくて、強行スケジュールを組みアグラへ。

タージマハルの白さとシンメトリーに圧倒されました。ガイドに待ってもらいながら、たくさんのアングルで撮影。たくさん撮影したのはタージマハルそのものだけではなく、ガイドとグルだと思われる写真屋さんに声をかけられ、記念になるからとたくさんのポーズでタージマハルと一緒に映ることに。タージマハルは見事な白さにも関わらず、私のたくさんの写真はというと、完全に黒歴史。まあそれでも自分では撮影することはないであろうタージマハルの写真を色々手に入れることができたので良しとします。【情報の収集】

タージマハルに限らず、モスクでも、ヒンドゥー寺院でも、仏教寺院でも、神聖な場所は土足厳禁というのが普通です。タージマハルの場合は訪れる人が多く、入口などに靴入れを用意しようとした場合、かなりの規模になることや、紛失・盗難トラブルへの対策からなのか、靴は脱がずにビニールのカバーで靴を覆う形でした。ビニールカバーのゴミ問題は別に考えねばならないのですが、靴入れやトラブルを考えた場合にはこの形は合理的だと思います。結果としてタージマハルは神聖な敷地内に靴を持ち込むことになるわけです。ただ別のヒンドゥー寺院や仏教寺院では、靴を脱いで持っていたビニール袋や手提げ袋に入れて入ろうとすると、靴の持ち込み自体を認めないところもありましたね。他の観光客が言われていることが分からず、寺院の僧侶から何度も注意を受け、怒鳴られている場面を見かけたことがあります。しかしタージマハルなどは利便性を優先しているのであって、本来ならば靴を持ち込むことは避けたいのかもしれません。【情報の収集】

靴は地面と接しているので多少なりとも汚れていると思います。そういった汚れたもので神聖な場所に立ち入ることは許されないというのも分かります。しかしタージマハルでもヒンドゥー寺院や仏教寺院でも、ネコやイヌを見かけることがあって、彼らは靴を履く習慣がないため、彼らの足は間違いなく地面と接して汚れているはずなのに、どうして彼らが施設にそのまま入ることは許されているのでしょうか。【課題の設定】

彼らが敷地に入るとき、僧侶などがその都度、彼らを捕まえて足を綺麗にしているという光景を見たことはありません。もちろん彼らが自主的に足ふきマットなどで足を綺麗にしてから入っていると考えることもできません。そして、ネコやイヌは人間以上に汚れた場所を行き来して生活している可能性が高いと思います。他にもゴキブリやバッタやガなどの昆虫類、ハトやカラスなどの鳥類、ヤモリやトカゲなどの爬虫類などが敷地内に入ってくることはあると思います。しかしおそらくそのような生き物が入ってくることについて、特別な対策をしているようには見受けられません。【整理・分析】

ここから施設内に入る際の行動が求められる存在と、それが求められない存在との間に、何らかの線引きがあると考えられます。昔から、人間は他の獣と区別された存在として考えられてきています。動物という点では人間もイヌも同じ哺乳類ですが、両者の間に引かれている線としては、「理性」とか「知性」とか「叡智(英知、叡知)」などと呼ばれるようなものを備えているかどうかが考えられます。この点について、ヘレニズム時代後期の哲学者であるプロティノスの「流出説」はその一つの例と言えるでしょう。流出説は、一者(ト・ヘン)という絶対的で完全なる唯一の存在を頂点として、そこから下へ流れ出すようにして、他のものが生じ、徐々に不完全かつ物質的に混濁した低次なものに向かっていくという考え方です。これに従うと、最も神聖なる存在は頂点の一者(ト・ヘン)で、人間はそこから下に流れ出した途中の存在と言えます。そしてイヌの他、獣や虫たちはさらに低次のもので、混濁の最終地点に地面が広がっていると考えることができます。【整理・分析】

ここから、人間とそれ以外の生き物の間に引かれる線は、一者に近しい存在か、それとも混濁した地面に近い存在かということになります。そして人間が寺院なども訪れ、神聖なる場所に立ち入ろうとするときに靴を脱ぐことを求められるのは、人間が混濁した地面との繋がりを断ち、できるだけ一者に近づくために必要な行為だったのではないでしょうか。物理的または物質的に敷地内が汚れるかどうかが問題ならば、人間以上に他の動物たちが敷地内に入って汚されてしまうことの対策を取らねばならないはずです。しかし、それをせずイヌやネコや他の動物たちの出入りを自由にさせているのは、それらの存在が一者に近づくことはないと考えていて、地面との繋がりを断ってできるだけ高次に至ることを期待していないからだと思います。【まとめ・表現】

このように考えると、人間には物理的または物質的な汚れ以上に、精神的な汚れとの繋がりを断つことが求められていることが分かります。人間がそのままの状態で精神的に高潔であり続けられないことは、例えばルネサンス期の哲学者ピコ・デラ・ミランドラや17世紀に活躍したフランスの哲学者パスカルなども指摘している通りです。前者は『人間の尊厳について』において、人間という存在が自由意志によって神的なものにも獣にもなり得てしまえることに触れています。また後者は『パンセ』の中で「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう。」と述べているとおり、人間は天使という一者に近い存在と、獣という地面に近い存在との間に位置する中間者で、行動を誤れば獣になってしまうことに触れています。ここから、明確な意思によって地面側との繋がりを断つ行動をとらなければ、人間は獣の方へ引っ張られてしまうわけです。【まとめ・表現】

これまでは靴を脱ぐ行為を単に物理的または物質的な汚れに対するものと考えていて、しばしば面倒だなと思っていましたが、今回の考察を通じて、精神的な部分でも非常に重要だと感じました。今後、こういった施設に入るときは、身も心も汚れとの繋がりを断つようにしたいと思います。【まとめ・表現】

#この街がすき   #旅のフォトアルバム
#インド   #アグラ   #タージマハル
#探究    #探究学習
#哲学    #プロティノス  
#ピコデラミランドラ    #パスカル

この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?