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★我楽多だらけの製哲書(47)★~シンガポールにとって忘れてはならない2月15日という特別な日とプラトン~

今年もこの日がやってきた。シンガポールに住む前は、社会科教員でありながら恥ずかしいことに、この2月15日という日に注目したことがなかった。

日本がシンガポールを占領したということは、アジア太平洋戦争の内容として知ってはいた。しかし、それはその戦争の中の一場面にすぎず、そのことに焦点を当てて、そこで起こった出来事について考えたことはなかった。

だがシンガポールに住み、様々な資料館や博物館を訪れたり、ジャパ中で実施していた日本人墓地清掃に関連して、生徒たちとともにシンガポールと日本の関係史を事前学習したりする中で、現在のように日本人がシンガポールで暮せていることがとてもありがたいことであると痛感するに至った。

「我々は忘れることはできない。完全には許すこともできない。しかし、最初に魂に安らぎを与え、次に日本人が誠実に謝罪をあらわしている中では、多くの人の心にある苦しみを救うことができる。」
これは「the Civilian War Memorial(市民戦没者記念碑)」の式典(起工式)で、シンガポール建国の父であるリー・クアンユーが述べた言葉である。

この言葉は簡素化され、日本とシンガポールの歴史的関係を表現するときに、かなりの頻度で使用されるフレーズ「Forgive, but never forget(許そう、しかし忘れない)」で知られるが、この言葉の本来意図していた内容というものは、文脈の中で確定されるべきものであって、インパクトのある部分だけを切り取って一人歩きさせてしまうと、異なった意味で受け取られてしまう可能性がある。

この「the Civilian War Memorial(市民戦没者記念碑)」は、別名「血債の塔」と呼ばれる。この塔の落成式は1967年2月15日であり、シンガポールにとって2月15日という日は非常に重要な日なのである。

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アジア・太平洋戦争の真っ只中、1942年1月終わり頃、日本軍は当時イギリスの統治下にあったシンガポールに侵攻した。そして2月15日にフォード自動車工場での降伏交渉を行い、イギリス軍は正式に降伏した。ここから3年半ほどの期間、シンガポールは「昭南島」として日本の支配下に入ったのである。その日本軍による支配の中で、多くの華僑が粛清されたことから、この期間は暗黒時代と呼ばれる。

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その後1961年末になって、当時粛清された華僑の遺骨が大量に出土した。これをきっかけに「日本占領時期死難人民記念碑募捐委員会」が発足し、記念碑建設の動きが本格化したのである。そして「the Civilian War Memorial(市民戦没者記念碑)」の落成は、シンガポールにとって忘れてはならない2月15日になったのである。

現在2月15日は、「Total Defense Day(国防の日)」とされており、毎年2月15日は、イギリス軍が正式に降伏した夕方の時刻に合わせてサイレンが鳴るのである。

つまり、シンガポールは「忘れていない」のである。ただ何を忘れていないのか、簡素化されたフレーズだけを見ていては、本来意図している内容は分からない。

リー・クアンユーの言葉について、もう少し前後の文章を確認してみると、次のようになっている。
「dedicating the ground to the memory of all races and religion who died in Japanese-occupied Singapore, was part of the process of making the past less unbearable. We cannot forget, nor completely forgive, but we can salve the feelings that rankle in so many hearts, first in symbolically putting these souls at rest, and next in having the Japanese express their sincere regret for what took place. It is in this hope that I officiate at today's ceremony.(日本のシンガポール占領時代に亡くなったすべての民族と宗教の人を覚えていることは、過去を乗り越える過程の一部だ。我々は忘れることはできない。完全には許すこともできない。しかし、最初に魂に安らぎを与え、次に日本人が誠実に謝罪をあらわしている中では、多くの人の心にある苦しみを救うことができる。今日の式典で私が責務を果たすにあたって、この希望の中にいる。)」

「出来事に対する行為責任について許した」ということと、「出来事に対する対日感情について忘れた」ということは同じではない。出来事に対する思いがリセットされたわけでは決してないのである。それどころか、「許そう、しかし忘れない」というフレーズによって強調されてしまう「許す」という部分についても、本来は「完全には許すこともできない」となっているわけで、「『許す』というものが完了しているわけではない」のである。

これは「頭」という理性・ロゴスでは許そうと考えてようとしているものの、それは完了していないし、「心」という情念・パトスにおいては全く忘れたわけではないことを意味している。つまり、主知主義(頭、理性・ロゴス)と主情主義(心、情念・パトス)のどちらにおいても何らリセットされたわけではないということである。

ただしシンガポールは過去の方ばかりを見て立っているわけではないことが、リー・クアンユーの言葉から分かる。「過去を乗り越える」というのは、過去だけに囚われるのではなく、過去を礎に未来へ踏み出すための意志の表れではないだろうか。そして、後半に「希望の中にいる」とあるように、憎しみのようなネガティブな感情を持ち続けるということではなく、過去を正しく認識した上で両国がこれからの関係性を積み上げていくことこそ目指すべき関わり方であり、それこそが理想的かつ現実的な関わり方であるはずだと考えているのだと思う。リー・クアンユーはこのような前向きでポジティブな感情によって歴史を見つめようとしていたのではないだろうか。

このとき主知主義(頭、理性・ロゴス)と主情主義(心、情念・パトス)と関わり合いながら、全体として望むべき状態に向かうために欠かすことができない人間の要素が「意志」ではないかと私は考えている。意志は人間の行動を実際に始めるためのきっかけに関わる要素である。

人間を車に例えるならば、理性は「車体そのもの」であり、正しく組み立てられていなければ走ることができない。そして意志は「エンジン」であり、車が動き出すきっかけとなる。最後に情念は「ガソリン」で、車が実際に走り続けるためのエネルギーである。この3つのうちどれが欠けても車は走ることができないため、いずれが優位ということではなく、それぞれ異なる役割を発揮することが求められている。

この車の話と同じように、人間の要素(魂)を理性・意志(気概)・欲望の3つに分けたのが、古代ギリシアの哲学者プラトンであった。プラトンは、理性の部分が正しく機能すれば「知恵の徳」が、意志(気概)の部分が正しく機能すれば「勇気の徳」が、欲望の部分が正しく機能すれば「節制の徳」が得られると考えた。このように人間の3つの部分が正しく機能し、それぞれの徳が実現し、全体として調和したとき、人間の魂は本当に正しい状態となって、「正義の徳」が成立すると考えたのである。

そしてリー・クアンユーの演説には、理性として許そうとしながら、意志(プラトンならば気概)として過去を乗り越えるため実際に行動を起こす形で、情念(プラトンならば欲望)としてはマイナス方向に向かいかねないエネルギーを上手くコントロールしていくというメッセージが込められていると私は考えている。

そしてリー・クアンユーの演説について考えるとき、いつも次の演説が同時に思い浮かぶ。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」

これは1985年当時、西ドイツの大統領であったリヒャルト・カール・フライヘア・フォン・ヴァイツゼッカーが、1985年5月8日のドイツ敗戦40周年記念日において行った演説の一節である。第二次世界大戦においてナチス・ドイツが行ったホロコーストに代表されるような行為を時間と共に忘れてしまうと、再び同じことが起こる危険性があることをヴァイツゼッカーは指摘しているのである。彼の言葉も、リー・クアンユーの言葉と同様に、上記のフレーズばかりが強調されてしまうが、ヴァイツゼッカーの演説についても前後の文脈を見てみると次のようになっている。

「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

有名なフレーズの前には、「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。」とあり、リー・クアンユーの「覚えていることは、過去を乗り越える過程の一部だ。」と比べて、前向きではないように文字の上では思えてしまいそうである。しかし両者の言葉は相反するものではない。どちらも「過去を正しく認識することの大切さ」を述べているのである。そしてヴァイツゼッカーの「過去を克服することではない」は、リー・クアンユーの「我々は忘れることはできない。完全には許すこともできない。」に関わるものといえる。つまりは「過去はリセットするものではない」ということになるだろう。

そしてリー・クアンユーの「過去を乗り越える」の部分と、ヴァイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目」の部分が関わる。過去を乗り越えるというのは、過去に囚われたままではないが、過去に目を背けて未来だけを見ることでもない。過去に目を閉ざさず、過去に真摯に向き合うからこそ、過去を正しい形で乗り越えて現在・そして未来に歩んでいくことができるという意味が込められていると私は考えている。

このように歴史というものは私たちに決して忘れてはならない大切なメッセージを示し続けてくれているのである。多分、シンガポールで教員をしていなければ、このような視点で考えることはできなかったと思う。

「歴史は人生の師である」
今日は、古代ローマの政治家・哲学者であるキケロの言葉がより一層響く。

(このあとに掲載する写真は、シンガポールの「血債の塔」や、「旧フォード工場記念館(Former Ford Factory、リニューアル前はMemories at Old Ford Factoryという名前だった)」、セントーサ島にある「シロソ砦(Fort Siloso)」の展示資料である)

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