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『死亡記念日』

『死亡記念日』

あれから、5年が経ったのか…

5年前の今日は「僕が死んだ日」。

もう少し詳しく言うと、

「僕」という、

それまで「僕」=「私」という“自己概念(自我/エゴ・あるいはプログラム)”が壊れた日。

『私』が『死んだ』日。

『私』が粉々に、砕け散った日。

あの日、僕は“”死に“”ました。

どうして死んだかって?

その9か月ほど前の2016年9月1日、突如目の前に立ちはだかった「肺ガンステージ4」という、巨大な壁。

僕は一瞬頭の中が真っ白になりながらも、

僕のメインプログラムである「闘う」ことにより、この苦境を脱することを選択しました。

医者は「治りません」と言う。

「抗がん剤は効く可能性は4割で、そのうち効かなくなり、違う抗がん剤に変えながらいわゆる“延命”しかありません」と言う。

1年生存率『3割』で、5年生存率は『10%以下』と言う。

治りません、と言う医者や病院など、全く信用しませんでした。

僕は「治りたかった」からです。

僕は生き残るために“必死”で闘いました。

必死=必ず、死ぬ

そんなことも、知らずに。

私立の大学に通う2人の子供もいる。

マンションのローンだってある。

死ねない

死ねない

絶対に死ねない

この闘い、絶対に負けるわけにはいかない

負け=死

そのとき、僕が調べられこと、考えられること、出来ること、すべて、やってやって、やり尽くしました。

貯金と、自分の自分の命のマッチレース。

どちらが先に、無くなるか?

だんだんと悪くなる体調

声がかすれて全く出なくなる

肺の中がチクチク、ズキズキ痛み出す

すぐに息切れして、休まざるを得なくなる

咳をすると、血を吐く

股関節が痛み出し、階段が登れなくなり、じきに立っているのも辛くなる

座骨が痛み出し、柔らかいところでなければ座れなくなる

体が重くなり、ダルさで立っていられなくなる

右目がシャッターを下ろしたように見えなくなる

自分の名前が漢字で書けなくなり、そのうちひらがなも分からなくなる。

ちがう、ちがう、これは好転反応なんだ。

治っているんだ

改善

快方

そっちに向かっているに決まっている!

だってあれもやってる

これもやってる

あれだって、

これだって

こんなことまで、やってるんだぞ!!

ポジティブシンキングで必死にネガティブを抑え込もうする毎日。

しかし、ふとした時に引きずり込まれる

「3か月後には、生きていない」

という予感…

そうして迎えた5年前の昨日、2017年6月8日。

あまりにも悪い体調のために、診察に行った東大病院で

「このままだと、来週にでも呼吸が止まる可能性があります」

それまで僕が「必死」でしがみついていた

死ねない

死ぬわけにはいかない

僕のやり方で

僕の方法で

僕の考えで

闘え!

闘え!

勝て!

勝て!

闘って、やっつけろ!

生き残れ!

生き残れ!

サバイブしろ!

生き残るんだ!!!

僕は、壊れました。

全てを考え、やってやって、やり尽くして、

全てを跳ね返されて、

全てが「無駄」だったと

悟ったとき、

僕という「自我(エゴ)」は、完全に破壊されました。

しかし…

自我(エゴ)が破壊されても、僕は生きていました。

「生きてるうちに、死になさい」

自我(エゴ)が死ぬこと

自我(エゴ)が破壊されること

自我(エゴ)が粉々に砕かれて、その痕跡さえ残さずに、吹き飛んでしまうこと。

自我(エゴ)が消え去ったその先の世界は…

何もない…

解放の世界…

無思考

無行為

無選択

ひたすら、心地の良い、解放の世界…

その後、僕に起きたことを一言で言い表すと、こうなります。

「生きながら、死人となりて、死に果てて、思いもままに、なすわざよ良き」

(至道無難禅師)

エゴが死に、その状態の周波数フィールドで生きていると、

向こうから勝手に、予想もつかないところから、いわゆる「良きこと」が雪崩のように、やってくる。

結果を求めての、行動(Doing)ではない。

先にBeing(存在の周波数)がある。

行為の結果への執着を捨て、常に充足し、他に頼らぬ人は、たとい行為に従事していたとしても、何も行為していない。

(バガヴァッド・ギーダー)

無為自然(老子)

死にたればこそ、生きたり。生きたらんには、死なにまじ(無住禅師)

みんな、おんなじようなことを言っている。

2017年6月8日は、僕が1回死んだ「記念日」です。


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