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「受験の責任」の所在は誰にあるのか【高校教員のひとりごと】

博多女子中学校の出願ミスが世間を騒がせた。最終的に高校側が救済措置として受験機会を設けたことがニュースになった。
この件について、中学校や高校の対応について様々な意見が飛び交っている。受験の責任の所在はどこにあるのだろうか。

当然ながら、出願ミスの責任はミスした側にある

出願ミスの一件で言えば、出願締切を勘違いした中学校側に責任があることは疑う余地はないだろう。制度上出願を中学校に委託せざるを得ない生徒本人には責任はないのはもちろんのこと、規則に則って(当初)受理しなかった高校側にも責任としてはないだろう。
(結果としては高校へも矛先が向いてしまったが…。)

では、受験の責任は誰にあるのか

出願ミスをすることによって進学先へ出願できなくなってしまった場合には、受験の責任はそのミスをした人へ向く。所属校に限らず、親が出願ミスをすれば親の責任であり、生徒自身が出願ミスをすれば自身の責任である。

そもそも、この「責任」とはなんなのだろうか。今回の件で言えば、中学校側へ求められていたものは、「受験をしたことによって合格になり、進学をできた可能性がある」ことに対する責任ということになるのだろう。
結果として合否は定かではないが、「進学ができなかったこと」に対して責任を取る必要が出てくるのである。

このことを元に、「受験の責任」について考えていく。今回の件から考えれば、受験の責任が「生徒本人」以外になる場合も起こりうる。出願ミスの場合の責任の所在は自明であるため、出願ミスでない場合、つまり受験をしたが不合格であった場合について考えていきたい。

最もストレートに考えれば、受験勉強が至らなかった「生徒本人の責任」であるが、「合格まで導くことができなかった人の責任」とすることもできてしまう。親や学校、あるいは塾に責任があると捉えることもできる。
もっと拡大解釈をしてしまえば、「学びたいという意志があるにも関わらず、定員を用意できていない進学先の責任」と捉えてしまうこともできなくはない。(突飛な理論ではあるが、、)

「学びたくても学べない」は常に起こっている

今回の一件を発端に、「受験の責任」について改めて考えてみることは有益であろう。出願ミスによって、生徒の「進学したい/学びたい」という思いが叶わなかったことで責任を問う意見が増えた。しかしながら、「受験をして不合格」になってしまった場合には、当然に起こることなのである。
出願ミスではない単純な不合格、つまり自己の責任の範囲内で、「進学したい/学びたい」という思いが叶わないことは当然のように常に起こっている。

「そもそもの挑戦の機会を失う」ことは言語道断であることは間違いないが、挑戦の機会さえ担保されていれば、本人にのみ責任があると言う風潮も正しいのであろうか。
「学びたい人が学べない」ことへの問題意識は今回の一件で大きく高まっているだろう。いい機会なので、もっと大きな視点から「学びたい人が学べない」ことについて考えてみると良いかもしれない。

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