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論文紹介 冷戦時代の欧州で軍事バランスはどのように分析されていたのか

冷戦の主要戦域と見なされていたヨーロッパでは、アメリカを中心とする北大西洋条約機構(NATO)の軍事力と、ソビエトを中心とするワルシャワ条約機構の軍事力のどちらが優勢であるかをめぐって研究者の間では議論が続けられてきました。

しかし、軍事バランスの捉え方が研究者によって異なっていたために、必ずしも共通の見解に到達できない事態が起きていました。その原因を考察したのがBiddle(1988)の功績であり、彼はどのような理論的な枠組みで軍事バランスを捉えるかによって、分析の結果がどう変化するのかを調べました。

Biddle, S. D. (1988). The European Conventional Balance: A Reinterpretation of the Debate, Survival, 30(2): 99-121. https://doi.org/10.1080/00396338808442399

軍事バランスは核戦力のバランスと通常戦力のバランスに分けて考えることができますが、ヨーロッパの通常戦力のバランスについては、東側が優勢であるという見方が長らく支持されてきました。このため、西側の通常戦力は数的に劣勢であるため、もし戦争が勃発した場合には、アメリカは即座に部隊の動員を開始し、大西洋を移動させ、西ヨーロッパの戦闘地域に機動展開させる必要があると考えられてきました。ただ、著者はこの議論の妥当性を慎重に調査し、疑問の余地が残されていることを明らかにしています(Biddle 1988: 100)。

通常戦力のバランスを評価する際に研究者が採用する理論は大きく2種類のタイプに分けることができます。一つは軍事バランスの基礎となる兵士、装備、物資に焦点を合わせる理論であり、他方は軍事バランスの結果として発生する損害に焦点を合わせる理論です(Ibid.: 101)。また、前者の理論には、さらに複数のバリエーションがあります。例えば、「ビーン・カウント(bean counts)」と称される分析手法は、戦時に動員が可能な部隊の規模、戦車や火砲などの主要装備の規模を定量的に比較する方法であり、それぞれの装備の性能の違いは考慮しません(Ibid.)。

この手法で軍事バランスを分析すると、戦闘が開始されてから15日間はアメリカはソ連に対して戦車の保有数で1:2から1:3の勢力比と劣勢になると評価されていますが、これは問題が多い分析であり、歩兵や砲兵の装備の比率、航空機の比率が軍事バランスに及ぼす影響を考慮できていません(Ibid.)。ただ、前線において機甲部隊の保有率が低いということを述べることができるにすぎないのです。

ビーン・カウントの問題を解決するため、機甲師団換算(Armored Division Equivalent: ADE)という分析手法が提案されています。これはアメリカ陸軍の機甲師団を比較の単位として利用する分析手法であり、戦闘地域に展開できる通常戦力でいくつの機甲師団が編成できるのかを理論的に見積もり、その数の比率によって通常戦力のバランスを評価するという手法です(Ibid.)。この手法を採用する研究でもソ連が優位に立っているという評価は変わりませんが、勢力比は1.5から2と見積もられます(Ibid.)。

ADEで多種多様な装備ごとに勢力比を計算するのではなく、一つの共通の尺度を使用することで包括的な勢力比を計算することができるようになりました。ただ、その勢力比が具体的に何を意味しているのかは明確ではありませんでした。勢力比が1.5である場合と、2である場合で、両軍の損害がどの程度異なるのか、あるいは、何日間にわたって戦闘を継続できるのかといったことは明らかではなかったのです。軍事バランスを形成する要因に注目するだけではなく、軍事バランスの結果として生じる損害の程度を考慮することが必要でした。

この問題に関連して広く使用されている分析手法として、ランチェスター・モデル(Lanchester Model)を応用するものと、適応動態モデル(Adaptive Dynamic Analysis)を応用するものがあると著者は述べています。ランチェスター・モデルはイギリスのフレデリック・ランチェスターによって構築された数理モデルであり、敵と味方の勢力比から、両軍にどれほどの損害が発生するのかを予想するために使用されます。

ランチェスター・モデルを用いてヨーロッパの軍事バランスを分析したカウフマン(William Kaufman)の分析結果によると、ソ連は1.414倍で優勢であり、1.8:1倍までソ連の優勢が拡大すると、40日以内にNATOの40個師団が全滅する恐れがあると見込まれています(Ibid.: 108)。ランチェスター・モデルは、初期の条件として敵と味方の軍事力に数的な格差があると、その格差が時間の経過に従って急速に拡大していくと予想します。そのため、軍事バランスを評価する際に、西側にとって悲観的な結果が導かれやすいといえます。

ブルッキングス研究所のエプステイン(Joshua Epstein)が構築した適応動態モデルはランチェスター・モデルよりも西側にとって楽観的な見方を示しています。適応動態モデルでは、一定の損害を受けた部隊は、損害の拡大を抑制するため、部隊の態勢を防御から退却へと移行すると想定されています。この部隊行動の変化はランチェスター・モデルでは考慮されていない要素です。

適応動態モデルは、ランチェスター・モデルよりも西側にとって楽観的な見方を示しています。エプステインの分析によれば、NATOは勢力比で不利であるものの、損害が予想される速さはランチェスター方程式よりも遅く、40日以内にアメリカの本土から増援が到着すれば軍事バランスを改善する余地があるとされています(Ibid.: 108-9)。

このように、同じ状況を分析しても、使用する分析手法によって異なる結論が導かれることには注意が必要です。これに対処するためには、分析手法に関する議論を深め、軍事バランスをどのように評価するのが適切かについてさらなる研究が必要であると著者は主張しています。

「もし本当の安全保障を実現するために進もうとするなら、この議論の方向性を見直すことが重要である。安定性に関する重要な問題、そして通常戦争における攻撃と防御の実施に注意を払わなければならず、また厳密に議論しなければならない。自覚しないまま軍事的妥当性をめぐって非生産的な議論に注力すべきではない」

(Ibid.: 114)

軍事バランスの優劣に関する議論を目にしたときは、その議論がどのような理論的根拠に基づいているのかを確かめることが重要です。軍事バランスには必ず何らかの程度で不確実さがあるため、それらしい数字が並んでいたとしても、その操作の仕方によって導き出される結論はまったく違ったものになる場合があります。

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