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価値あるとされているモノが自らにフィットしない【“である”と“ではない”の関係性】

書き殴りから生まれた怪文書を曝け出したいと思います。だいぶ抽象的な話をしますね。何を言っているのか分かりにくい感じになるかもしれませんがお付き合いを。

何かしら「この考え方には価値がある」的なモノがあるとしますね。例えば人生だったり、例えばビジネスだったり、何かの目的に沿ってその道を辿っていくために結果が出るとされている考え方。

一面でそれは真実で、実際にその考え方を取り入れることでドライブする人・状況も多い。その価値は言うまでもないことかもしれません。これまでの自分にない考え方を取り入れ、その考え方で変化を起こせたなら、それは何も否定することはない。

一方で、その考え方がどうしてもフィットしない人や状況もある。思考特性や環境からの影響だったりするんですが、「価値がある」とされる考え方を取り込めない場合だってあるんです。もうコレは「体質に合うか」みたいなモノと似た状況です。

で、何か特定の「考え方には価値がある」と発している人たちは二つのスタンスに分かれるのでしょう。「自分たちの考え方を取り込めないヤツは愚か者だ・バカだ・何も分かってない」と見なすスタンスと、もう一つには「自分たちの考え方にフィットしない人もいるよね」的なスタンスです。

前者は僕のスタンスからして論外なのですが、後者であったとしても、それはそれで問題を含んでいるなと感じます。最近そう感じ始めた、という表現が正しいかもしれません。

まず、後者のスタンスを取っていながらも前者的な姿勢が含まれている場合がある。「色んな考え方があってイイよね(でもそれじゃ幸せになれないよ、バカだなぁ)」的な思考になっている場合です。これは受容しているようで受容していない。

ただこの姿勢になっていると、そういう姿勢であることに余計気づきにくくなります。自分としては受容しているつもりではある。しかしそこに無意識に自分とは異なる他者に対する蔑みがある。これに気づくのは、よっぽど自分の内側に向き合うか、そんな姿勢に対する他者からの指摘を真摯に受け止められたとき。まぁ難しいんですよね。

で、本当に受容しているけど単にフィットしていないと見做している場合には、その人とのスタンスとしては美しいものだと思うし、相手の世界観もそのままに置いている。一見、これが理想的であるように思います。一見です。そう、だから理想だと思うことにブレーキを踏みたい。

ここでは何かしら「この考え方に対して価値がある」といわれているモノがフィットしない人を「ではない人」と表現します。

「ではない人」はいつも自分で何かしら探すしかないんです。これは当たり前なことと語られている気がします、曰く「自分に合う考え方は自分で見つけろ」と。でも何でしょうね。あまりにも取っ掛かりが無さすぎやしないかと思うのです。

「ではない人」は弾かれて終わるんです。ウチじゃなかったね、コッチの考え方にはフィットしなかったね、違うね、合わないね、このピンボールみたいな総当たり選手権で「である」を見つけることができるんでしょうか。

「である」は「ではない」の集合体とも捉えられる。犬であるものは犬であるものによって定義されているのではなく犬ではないものによって定義されているとも言える。

でも人生において、そこまで多くの「ではない」を集めることができるのか。「ではない」に向き合うことは、なかなかハードなことです。そうなると、自分にとっての「である」にはどうやって出会ったらイイのか。

僕が人それぞれの『捉え方』を追い求めるのは、そんな思考にあるのかもしれません。

自分が何か一つの領域において「ではない」だと知ったときに、何も取っ掛かりのない状態だと異なる「である」を探すことはできません。

「である」の領域の側にいる人は「である」に位置する人を導くだけです。「ではない」側にいる人をナビゲートする義理も義務もない。だからこそ「ではない」は旅をするしかなくなってしまう。

でも、何か一つの領域が提示されたときに「である人」と「ではない人」の双方を含んだ地図のようなモノが描ければ、きっと苦しい旅を少しでも軽減できるんだと思います。

大切なことは地図に対して「である」側からの評価を加えないこと。それは「ではない」側への蔑みになってしまうから。

だからこそ『捉え方』がヒントになるんじゃないかと思うのです。

価値観と言われるモノとは少し異なる気がします。価値観と似ている部分・重なっている部分もあります。世界を自分がどう見ているか。「認知」と近しい言葉のようにも感じますね。

例えば僕がよく使う思考の「時間軸」は捉え方の違いを浮き彫りにさせてくれる概念です。バックキャストな思考が強い人とフォアキャストな思考が強い人がいて、でもその捉え方の違いは地表に浮かび上がってきません。

まぁ、この思考自体が「考え方」の一つです。だからきっと、この考え方に対して「である」も「ではない」も存在する。永遠とループする思考なのかもしれませんが、でも僕は『捉え方』を一つのテーマに置いているのです。

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