全て正直な気持ち

今回、『きつねびより』という本に載せた、ぼくの体験談の全文です。

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私が吃音を発症したのは小学3年生くらいの時です。
はっきりとしたことは覚えていませんが、当時の担任の先生から指摘を受け医療施設で調べたところ吃音ということを言われたと、後に母から聞かされました。

そこから約15年、今でも吃音の症状はあり、日々向き合い続けています。

吃音に絡んだ嫌な思い出で一番古い記憶は、小学5年生のときのものです。1分間スピーチで症状が出たとき、クラスのみんながそれを見て大爆笑、ということがありました。スピーチが終わって自分の席についたときには涙が止まらなくて、悔しさと情けなさと悲しさがごちゃ混ぜの感情になったことを今でも覚えています。

「自分なんて必要ない」とか、「死んじゃいたい」といった思いを少なからず抱いた経験のある吃音話者さんもいらっしゃるかと思いますが、私もその一人でした。
おしゃべりが上手でクラスのみんなを笑わせている人や、しっかりとした意見を堂々と述べている人とつい比較し、「みんなは普通にしゃべれてるのに、どうして自分は・・・」という気持ちになり、自己肯定感が徐々に失われていったように思います。そして、自分を卑下するようなことを考えてしまうという、今考えれば最悪のループに陥っていました。

10代のときにいつもやりがちだったのが、「会話を自分で強制的に閉じてしまう」ことでした。
話の冒頭でつっかえてしまい、発声が苦しくなってくると、「なんでもないわ」とか「やっぱりいい」と言って無言になる、ということをいつもやっていた気がします。
ここにも、スムーズな会話ができる他人との対比と、それに伴って芽生えてくるネガティブな感情がありました。
「この人、もしかして自分と話すのめんどくさいって思ってるんじゃないかなあ」といった、ある意味被害妄想めいた気持ちがいつも心を支配していて、言いたいことは山ほどあるのにそのまま口から出せないもどかしさにも繋がっていったように思います。

そんな自分でも、「カミングアウト」をすることによって救われた経験が何度もありました。
高校生になって携帯を持った時です。当時のクラスの友達に、メールを使って初めて自分の状況や気持ちを伝えると、「話してくれてありがとう」とか「友達なんだからどんどんおしゃべりしてよ」といったリアクションが多く寄せられました。
もちろん、私に気を遣ってそういうことを伝えてくれた人もいただろうし、全員がポジティブな気持ちでそのメールを読んでくれたわけではないかもしれないとは思います。でも、この一件があって私は、「仲良くなりたいって思った人には絶対に吃音のことを話そう」と心に決めました。
誰かに話すことで、その人とのコミュニケーションでのストレスはちょっと減るなと感じます。前述した、「話すのめんどくさいって思われているかも」というような疑念は軽くなると思うし、相手にとっても、「ただ噛みまくる早口な人」というある種の誤解を解くことができるのではないかと思います。

そして大学生になり、徐々に吃音への向き合い方が変わりました。
もともと旅行がすごく好きだったのですが、アルバイトをしたお金で海外や国内を巡るようになり、旅行系のベンチャー企業でインターンを始めたことによって多くの旅好きな学生と出会いました。
そういうふうに様々な出会いを重ねて、いろいろ話をしていく中で、吃音に対してもポジティブな気持ちを持てるようになりました。
いろいろ思うことはありましたが、一言に集約すると、「人間の価値は、うまく話ができる一面だけでは決まらない」ということです。
一般から見れば当たり前のことかもしれませんが、私は15年間ずっとうまく話せることを主眼に置いて生きていました。もっと言えば、「上手に会話ができるあの人はすごい、それができない自分はダメダメ」という価値観でしか物事を見れていませんでした。
それをほどいてくれたのは、大学生活の中で出会ったいろんな人の影響が大きいと思います。ちゃんと私の中身をみて褒めてくれる人、叱ってくれる人が、ありがたいことに周りにたくさんいました。その人たちのおかげで、私自身成長できたと今強く感じています。

吃音に絡むいろんな経験を通じて今思うことは、「人が持つ想いや夢って本当に貴重で尊いもの」だということです。
ちゃんと自分の意見や希望はもっているけどうまく発信できなくてどうしよう、ということをずっと心の中で感じていた時期があるからこそ、人の気持ちに対しては誠実でありたいと思うようになりました。
他人(特に自分の大切な人)の想いや感情を粗末に扱ったりしてはいけないという、自分自身が最も大事にしたい価値観は、この吃音の経験から醸成されたものなのかもしれないです。

吃音はつらく苦しいものである一方で、人生において自分自身の財産となりうる大事なこともいっぱい教えてくれたというのが、今私が心から感じていることです。
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