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「原発避難」とはなにか

■落ち着けない、ということ 
 東日本大震災から12年がたとうとしているわけですが、あなたはあの3月11日、どこにいて、何をしていましたか。これを読んでくださっているみなさんのなかには、直接的に被災した人もそうでない人もいると思いますが、あのとき東日本にいた誰もが、何らかの「非日常」を経験したのではないかと思います。
 筆者はあのとき、山形市の職場――若者支援NPOのフリースペース――にいて、若者たちとこたつを囲み、談笑しながら、金曜午後のおだやかな時間を過ごしていました。そこにあの長い長い揺れとそれに続く「非日常」の日々がやってきました。山形県村山地方にいた筆者の場合、「非日常」とはまずは停電でした。
 停電が明けたのは翌12日の夜、テレビをつけて最初に目に入ってきたのは、福島第一原子力発電所一号機の建屋が爆発する衝撃的な映像でした。そのあとは、事故報道を注視するだけの日々が続きました。というのも、筆者のNPOは業務委託元の行政から「業務は停止、連絡あるまで待て」と言われていたからです。
 3月半ばとは、通常であれば、年度末の事業報告で慌ただしい時期です。もしかしたら、そうした通常の行政プロセスが遂行できない事態――要するに、国家の崩壊――が迫っているのかもしれない。自分たちもこの土地を捨ててどこかへ避難しなければならなくなるかもしれない。そんな不安のなかにいた日々でした。
 筆者の場合、そうした「非日常」は一週間ほどで終わり、通常業務に復帰していくことになりました。みなさんの場合は、果たしてどうだったでしょうか。どんな「非日常」をすごし、それが「落ち着いた」のはいつ、どの時点だったでしょうか。その際、いったい何を以て「落ち着いた」と言っているのでしょうか。
 実は、11年が経過したいまなお、とても「落ち着いた」とは言えない人びとも存在しています。それが原発避難者です(2022年夏、山形県内に1,373人)。それまで生活していた場所を追われ、ちゅうぶらりんの避難生活を続けている方たち。これが東日本大震災のもう一つの側面、原発災害の爪痕なのです。

■被ばく限度基準の更新
 放射線を出す能力が放射能、放射線を出している物質が放射性物質です。強い放射線を短時間で浴びれば――「被ばく」と言います――人体の機能は破壊され、がんになったり死んだりします。私たちはみな常時、自然放射線に晒されていますが、微量なので影響はありません。あくまで人工の強い放射線が問題なのです。
 放射線治療や核兵器開発、原子力発電など、人工の強い放射線を扱う専門領域では、それらが一般の人びとに害を及ぼさないよう、厳重な管理のもとで業務を行っています。放射線は目に見えず、においも刺激もないため、被ばくは放射能測定器(個人線量計やサーベイメーターなど)で測る必要があります。
 人がどれくらい放射線を浴びたかを表す単位がシーベルト(Sv)です。被ばくは累積し、その総量によって人体へのリスクが増えていきますので、放射線業務従事者――原発作業員や放射線診療関係者など――の人びとは放射線管理手帖でこれまでどれくらい被ばくしたかを記録し管理しています。
 1,000μSv(マイクロシーベルト)が1mSv(ミリシーベルト)、1,000mSvが1Svです。たくさん被ばくするほど、がん発症率や死亡率がUPしますが(例えば、1,000mSvの被ばくだと、がん発症率は50%、死亡率は5%UP)、そうした健康被害が出始めるのは100mSvからというのが通説です。
 100mSvとは、1年に1mSvずつ被ばくして100年でようやく到達できる数値です。これを根拠に、一般人の被ばく限度を年に1mSvとする被ばく限度の基準がつくられ運用されてきました。そこにいると1mSv/年以上の被ばくをしてしまう場所があった場合、政府はそこから人びとを避難させねばなりません。
 福島第一原発の事故により、放射性物質が管理区域外に広く飛散しました。通常の基準だと、東日本の多くの地域から人びとを強制的に逃がさなければならないということになってしまいます。当時の政府はそれをせず、代わりにある選択をしました。被ばく限度基準を変更し、20倍に緩めるというものでした。

 

■強制避難とはなにか
 一般人の被ばく限度基準を20mSv/年に変更したことで、政府は、20mSv/年を超える高線量汚染地域からそこにいた人びとを避難させねばならなくなりました(強制避難)。この区域を「避難指示区域」と呼びます。事故直後は、福島第一原発から半径20㎞圏内ならびに圏外の高線量区域が指定されました。
 実際には、放射性物質は風に乗って流れ、降雨とともにその場所に定着するものであるため、事故当時の南東風により、原発から北西方向へのびる帯状の広大な一帯が高線量の汚染地域となりました。こうした汚染の現実をふまえ、「避難指示区域」は、汚染の度合いに応じた三つの区域に再編されることになります。
 このうち最も線量が高いのが「帰還困難区域」で、50mSv/年を超える地域がこれに該当します。福島第一原発のある双葉町・大熊町のほか、双葉町に隣接する浪江町、さらにその隣の南相馬市・葛尾村・飯館村の一部が含まれます。線量が高すぎて除染の効果も見込めないため、文字通り「帰還」は「困難」です。
 除染とは、地表に降り注いだ放射性物質をはぎとり、その場所の線量を下げること。はぎとってでた放射性廃棄物は一か所にまとめ、のちに貯蔵施設に収容します。放射能はその核種ごとの半減期がくるまで衰えることがないため、人里から遠くに隔離しておくしかありません。つまり、除染とは移染でしかないのです 。
 ともかくそうやって除染をし、線量が20mSv/年以下になれば、そこは「避難指示区域」の指定を解除することができます。人が住んでもいい場所になるわけです。これが帰還政策で、政府は20mSv/年以下にできそうなところを「居住制限区域」、それ以下になったところを「避難指示解除準備区域」としました。
 「居住制限区域」には、「帰還困難区域」に隣接する富岡町や飯館村、川俣町などの一部が含まれます。日中だけ滞在でき、住民の方々が片づけや管理に訪れました。これはのちに「解除準備区域」となり、やがてそれもほぼ解除されました。しかし実際に戻った人は少なく、帰還政策は「復興災害」とも言われます。

 

■自主避難とはなにか
 事故前までの被ばく限度基準は、一般人が1mSv/年、放射線業務従事者が平均で20mSv/年でした。後者は、専門の教育を受けているし、リスクへの覚悟もあるし、大人だから放射線への感度も鈍いし、ということで許容された数値でした。事故後、その基準が一般人にも適用されるようになりました。
 当然、福島県内では、このままここに居ていいのかという不安や恐怖に駆られる人びとがでてきます。政府は「直ちに影響はありません」と言っているが、それを鵜吞みにはできない。そう判断し、20mSv/年以下の地域――「避難指示区域」の外――から避難した人びとのことを、「自主避難(者)」と言います。
 「自主避難」として多かったのは、父が福島県内に残り、母と子が県外に避難するケースです(母子避難、分離世帯)。小さな子どもほど放射線への感度が高く、甲状腺がんなどの発症リスクが大きくなることが、チェルノブイリ原発事故(1986年)からも明らかでしたので、子どもの避難が重視されたのです。
 とはいえ、政府は当初「自主避難者」に冷淡でした。「必要はない」と言っているのに避難したのはあなたの勝手でしょ、という理屈です。しかし、見知らぬ街にいきなり移って、ただでさえ難儀な子育てにひとりとりくまねばならないのは、とても大変なこと。各地で彼女らに救いの手が差し伸べられました。
 これが、避難者支援の活動です。全国各地のボランティアやNPOが「移住」のしくみを整え、受け入れを行ったり、移住が不可能な人びとに対しては「保養」――高線量地域を離れ、被ばくを気にせず過ごすこと――の機会を提供したりしてきました。山形県内でもかつて10近くの保養団体が活動していました。
 保養のようすは、福島の母親たちを追ったドキュメンタリー『小さき声のカノン』(鎌仲ひとみ監督、2013年)で描かれています。福島の人びとはこうした移住や保養の支援を活用しつつ、事故後の不安や恐怖に対峙していきました。そこでの知恵や工夫は、来るべき放射能災害への貴重な知見、備えとなるはずです。

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