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愛憎芸 #32 『皇居ランの約束』

 約束という言葉には、とりあえず束ねておけばどうにかなるだろうという傲慢さが見え隠れしている。約束。語源を掘り出してみると古代中国にルーツがあって、取り決めを忘れないように紐などを結んで目印にした習慣から、だそうだ。そう、この場合の約束はどちらかというとリマインダーのニュアンスが強い。リマインダーとしての約束。リマインド=思い出す、思い出すよう求められること。つまるところ忘れてはいけないもの。そして、果たされるべきもの。転じて、果たせなかった場合心に残り続けるもの。なかったことにできるもの。転じて、後悔——わたしの心は緩やかに、しかしながら各駅停車ではない、センチメンタルへと向かっていく列車のようだ。すべての言葉は憂鬱を孕んでいる。センチメンタル広辞苑というものがあれば進んで購入する。ありふれた言葉の裏に潜むおセンチな面が、用例として記載されている。使える。PUNPEEも「得も言われぬ気持ちはエモいじゃない」というバースを蹴っていた。言葉にできない感情などない、その瞬間こそ言葉にできなくとも、人は生きている間には、できる限り言葉にすることが必要だ。振り返れば長い道、それを思い返しながら言葉を紡ぐことは何一つ無粋ではない。言葉を紡ぐこと、そこに手遅れなど存在しないのである。

 口約束程度だが、皇居ランをしようと話したことがあって、結局それは果たされないままであるし、今後少なくともその人と皇居ランをすることはないだろう。皇居の外周はおよそ5キロでわかりやすい、という話をその人としたわけではないが、できるだけ突飛なことをわたしたちはするべきだと思うと言われ、その結果わたしたちが導いた「突飛なこと」の答えがこの皇居ランだった。しかしいざ東京駅丸の内口を出て直進、皇居の前へ足を運ぶと、たくさんの人々が息を吸っては吐き、アスファルトの上を軽やかに走っている。わたしたちが「突飛なこと」としたことが彼らにとっては日常だ(ひょっとすると「今日だけ」の人もいるかもしれないのだが)。そもそも皇居ランの話が出たのも、わたしたちの共通言語の一つだった村上春樹が皇居ランに勤しんでいるからだった。わたしの最も好きなエッセイ本は彼の『走ることについて語るときに僕の語ること』なのだが、その中で彼の基本的なワークアウトとして描かれるのが皇居ランなのだ。

 もう少し洒落た人間でいたかった。つまらなかったなと思うのは、「シャワーどうしようね」とか言ったことだ。皇居ランと聞いて思い浮かんだのが走り終わった後の汗や体。そんなもんどうにでもなるのに言及してしまうのだ。夢で見る光景が深層心理に関わるように、こういう咄嗟の一言を後から思い出しては、最低限安心な道を歩もうとする、わたしが元来持ちうる心配性を垣間見て厭になる。(そのくせ、突発的な買い物は容赦なく行う)

 こんな話を知っていたらよかった。皇居ランの始まりは、「皇居1周マラソン」というイベントだった。1964年、東京オリンピックの少しあと、11月1日のこと。開始時間は未明(!)、主催は銀座のクラブやバー(!)、選手は約40人のホステス(!)。当時の新聞、雑誌に記録があるらしい。それに刺激を受けた国立国会図書館で働く男性職員たちの有志が昼休みに走り始めたと。確かに5キロなら昼休みに走れる。その後70年台にはすっかり「皇居ラン」は定着し、2000年台に入ってから東京マラソンが開催されたことにより一層その人口は増加していったという。

 なかったことになった約束をどうやれば果たせたのか考えるのは愚かだとわかってはいるし、この話を知っていたからといってその約束が果たせたかというとそんなはずもない。それでも今のわたしはあの時のわたしにこの知識を授けてやりたいと思うのだ。これが、後悔?色々思いを馳せてそれをまとめていって整理していくというのも後悔の一部だと思うが、ここにもやはり束ねる行為は存在し、ともすれば後悔と約束は肉薄するのだろうか。しないか。

 スポーツクラブに入会した。ホワイトボードにこの時間まで走りますと宣言するように、イニシャルと時刻を書き込んで、ルームランナーの上に乗る。ボタンを押すとそれはゆっくりと動き出して、わたしは連動して体を動かす。ルームランナーより速く走ると空回りみたいになって虚しいからペースが一定に保たれる。ボタンさえ押せばいくらでも速度をいじることができるし、走るペースは上がるいっぽう、それ以上やると自分、無理です!というところの少し手前、そこで固定しできる限り走る。いくら走っても前に進まない。速度が変わることもない。けれど手元では1キロ、2キロと距離が記録されていき、こんなのゲームセンターの電車運転ゲームみたいだ。なるほどわたしたちの心も体も列車で時にどこへも行けないことがあるのね。

 はじめ30分走るつもりでいたのに、と思いながら20分で疲れて汗もダラダラ、ということがよくある。それでホワイトボードの文字を消したとして誰に責められるわけでもないのに、心のどこかに引っ掛かりは残る。そんな、数日で忘れる感情と、いつまでも引っ掛かり続ける感情、それらは同じ言葉であるはずがなく、辞書の編纂というのは骨が折れる仕事だと思った。スポーツクラブには基本的に、シャワー室や「スパ」が常設されていて、わたしはそこで汗を流した。

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