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『大豆田とわ子と三人の元夫』

 関西テレビ系列で放送されていた『大豆田とわ子と三人の元夫』が6月15日、フィナーレを迎えた。『花束みたいな恋をした』がメガヒットを記録した坂元裕二氏、『anone』以来の連続テレビドラマ脚本作品。三回結婚して、三回離婚した大豆田とわ子が、それでも幸せを諦めず奮闘する物語——演出の美しさ、坂元裕二脚本作品特有の何度も再生したくなる台詞、私たちの意識の外にあにあることを、ふと思い出させる展開(地獄の餃子パーティーと綿来かごめの死の対比、とわ子の母の恋の真実)など、含蓄だらけの全10話は私たちに誰かの人生を観ることの喜びを思い出させた。それはつまり、ドラマを観ることの喜びなのだろう。5話までは「サザエさん方式で50年くらいやってくれや…」と思っていたけれど、6話以降は人生が有限であることを思い出させられ、後頭部をガツンといかれる感覚すら覚えた。

 そんな、『大豆田とわ子と三人の元夫』。私が「三人の元夫」の中で一際愛しさを感じたのは"Season 3(大豆田唄:談)"こと中村慎森(しんしん)である。三人の元夫の中で、物語の中で最も変化、成長を遂げたのは中村慎森なのではなかろうか(もちろん、境遇としては田中八作が最も厳しい立場に立たされていたが)。極端に内省的、そのくせ他者には攻撃的(「先生のパラメーター攻撃力は100なのに防御力は1だね」)。そんな愛おしくて仕方ない、中村慎森。

序文:中村慎森について

 さて、中村慎森は物語を通して、人間的成長を獲得するキャラクターである。二話の終わりには挨拶をするようになるし、最終回ではハワイからのお土産を買ってきたり(袋に「アロハ」とあいさつが刻まれている)、雑談ができるようになった姿も映っている。相変わらず「オーガニック」なモテ男を継続している田中八作や、器の小ささを発揮し続けている佐藤鹿太郎の描写ののちに映る慎森のこのような姿は、この『大豆田とわ子と三人の元夫』のサブプロットとして「中村慎森の人間的成長と変化」が考慮されていることを物語る。では、中村慎森に起きた変化とは何か。ただ「丸くなった」、果たしてそれだけなのだろうか。
 中村慎森というキャラクターは私たちが元来持っているはずの、どこかに置いてきてしまった純粋さという要素の象徴なのではあるまいか。『大豆田とわ子と三人の元夫』は、人間の根幹にある純粋な部分が、様々な人とのかかわりの中で果たしてどのように揺れ、またどのように他者からの影響を受けるのかを中村慎森を通して描写しているのではないだろうか。中村慎森にとっての「さまざまな人々」とは主に大豆田とわ子と二人の元夫、そして小谷翼だろう。彼女らとどうかかわり、彼の中でどのような変化が起きたのか。そして最終回で映る彼の、「少しだけ雑談ができるようになった」姿に、私たちは何を思えばいいのだろう。自己愛と社会、そして人間の成長の可能性について、中村慎森を通して考える。

心の奥底の代弁者として

 中村慎森は、とにかく悪態をつきまくるキャラクターだ。「雑談っていります?」「挨拶っていります?」「挨拶は大事っていう人、挨拶って漢字で書けるのかな」と。しかしながら、決して「雑談」や「挨拶」そのものが嫌いな人ではないということが、物語を通して明らかにされていく。大豆田とわ子に対して、毎回雑談をけしかけているのはむしろ中村慎森である。大豆田とわ子を明確に「好きな人」とし、今でもそれを口に出しては、大豆田とわ子に「元気でいてほしい」と言われる、憐れな中村慎森。彼は、心の奥底に在る本音に対し、ひたすらに正直なだけなのである。

雑談はいらない。お土産はいらない。だけど、好きな人との雑談は楽しいし、好きな人からもらうお土産はうれしい。(7話)

 好きな人以外なにもいらないんだ、あまりに純真な、心の底の本音の表明。そうなのだ。自分の好きな人との会話だけで済むならば、愛しい時間が永遠だったならば。結局私たちは生命を維持するために、社会にその時間を阻まれる。きっと、大人になればなるほどに。そうした状況になんとか抗おうとする、中村慎森。「お土産っている?」「挨拶っていります?」。

ありのままの自分じゃいられない

 そんな中村慎森。物語における一番目のターニングポイントが2話において、夫婦時代にかけてやりたかったこの言葉を言えて、憑き物が落ちた(僕までタルトもらった)時だとする。

君は、昔も今もいつもがんばってて、いつもきらきら輝いてる。ずっと眩しいよ」(2話)

 ここでの感情の動きは、あくまで自身の過去について一定の清算をしたということであって、人間性の決定的な変化にはかかわってこない。なぜなら、大豆田とわ子は、彼の「純真さ」を未だに面白がり、顔をしかめながらも愛してくれる人だからだ。そこに絶望をしなければ、傷つくこともない。佐藤鹿太郎と対照的に、とんでもないほど器が大きい大豆田とわ子。のちの地獄の餃子パーティーで、「僕たちは大豆田とわ子に甘えていたのではないか(6話)」と中村慎森気が付くきっかけになったのは、自らの純真さや、自分を中心とした半径数センチ(心理的な距離)しか愛せないという性格が、誰かを傷つけたという事実である。そして傷ついた人物が小谷翼であり、彼女との別れこそが、二番目のターニングポイントであった。

 小谷翼は、嘘のパワハラ被害を持ち込み、弁護士である中村慎森に近づいた。嘘が看破されて逃げ出すものの、再度現れる。

中村慎森と小谷翼

慎森「いい加減にしてくれるかな。君のくだらない嘘のせいで僕は貴重な時間を無駄にした」
翼「嘘はついたけど、くだらない嘘はついてない。先生に近づくための嘘だったから」(4話)

 「雑談っているかな?」が口癖の中村慎森にとって、小谷翼の嘘は「くだらなく」て、「時間の無駄」なものだった。果たしてこれは、「冷たい」のだろうか。中村慎森は決して、慈愛の心がない人物ではない。一方でその範囲がとことん狭い。それが中村慎森。その性質で人を傷つけたと自認できた初めての相手、それが小谷翼。

翼「二年間毎日顔を合わせてた。わたし、そのたびに、いってらっしゃいませ、おかえりなさいませって挨拶してきたんだよ。おぼえてなかった?見てなかった?ふーん、誰が掃除してるかなんて感心なかったか」(5話)

翼「私のことなんか誰も興味ないですよね」
翼「めんどくさそうってことで一括りなんでしょうね」(6話)

 慈愛の対象外なので、無論挨拶を返さないし、外で会ってもそもそも認識していないので、気づくはずもない。

慎森「前者二人は彼女が怪我してるのに優しさが足りなかった、でも三人目の人は、ただ顔を覚えてなかっただけですよ」(6話)

美怜「その人はきっと、自分だけが好きなんだろうね」(6話)

 この古木美鈴の指摘は、合っているようで間違っている。中村慎森は決して自分だけが好きなわけではないということは、6話までみてきた視聴者はわかっている。けれども慈愛の範囲が絶望的に狭い。けれどもそんなこと、本人(と、大豆田とわ子)以外には関係ない

美怜「言い訳の第一位。言いたいことの半分も、はい!言えなかった!」
翼「言えたことですよ。言えたことだけが気持ちなんですよ

  帰り道、中村慎森はまたシュートを外してしまう。そして小谷翼に「成長しませんね」と言われる。そして、笑顔で向けた挨拶を無視される(小谷翼は最終的には返してくれるのだが)。

 第一のターニングポイントで、自己の過去を清算したとするならば、この第二のターニングポイントで彼は他者の存在を知ったといえる。自分と無関係な他者など、存在しないことを知るのだ。他者とは社会だ。つまり、社会の存在を無視することは、どうあがいてもできないということを知った。ただ自分として存在しているだけなのに、誰かを傷つけるリスクがある。少なくとも今の自分は変わらなければならないと、中村慎森は気づく。

人は変われる生き物か

 筆者の友人が常々口にしている言葉がある。「人間が根本的に変わることなんて不可能なんだよ」と。どれだけ過去に何かを経験しようと、結局人間は同じ過ちを繰り返す。学習をしてある程度リカバーすることができても、本質的に変わることができないから、ふとした時にそれが表出する。「ふとした時に」表出するのだから「それが素なんだな」と思い絶望する、と。人間は変わることができない。だからありのままの自分を受け入れていく、そのまま突き進んでいくしかないのだ、と。ある種、これはこのドラマのメインプロットなのではあるまいか。3回離婚した大豆田とわ子が、それでも幸せを諦めず突き進む。最後は親友を愛した一番目の元夫のありのままでさえも受け入れ、親友と一番目の元夫と、三人で生きることを決める。
 序文で述べたように、最終回で描かれる田中八作や佐藤鹿太郎の姿についても、特別な変化が起きたわけではなく、むしろ元あった個性がそのまま描写されている。「ありのままの自分を愛し、生きていくことができる」というメッセージが、このドラマの根幹を支えていることは間違いないのである。

 しかし、中村慎森だけは、どうにか変わろうともがく。言えなかった気持ちを、大豆田とわ子に伝える。「君は眩しい」すら言えなかった中村慎森が、大豆田とわ子が田中八作へ馳せていた思いを看破し、「小鳥遊じゃない」とけしかける。最も「雑談」が多い佐藤鹿太郎を「英字新聞マン」と電話帳登録し、結局ともに雑談を繰り広げる。そして、ラストのシークエンスでは、ついにしろくまカンパニーの社員とも雑談ができるようになった。

 どうにかしたい。ここではないどこかへ飛んでいきたい。そんな思いは誰だって心のどこかで持っているはずの、まさにイノセンスの側面であろう。中学英語・仮定法の例文ですら、そうした思いを吐露している。

If I were a bird ,I could fly in the sky.

 人間は移り行く生き物なのではないか。自分自身だけで生きていく世界では、もちろん変わりようがないけれど、"誰かと出会って、そして別れて"傷つき、人の痛みを知ることで、変わることができる。ハワイに行った中村慎森がこんがり「健康的」になったように、人間が変化することへのささやかな希望を、中村慎森を通して私は見出していたのである。



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