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時代が名もなき子供を変える「同志少女よ、敵を撃て」

本屋大賞受賞作です。
毎度のことながら、この本に関しては書籍で読みました。
個人的には本屋大賞を信頼しているので、その裏側で悪い顔をしている大人が見えなくもないのですが、その結果が示すように毎年面白い本に出会うことが出来ています。
普段は新刊にはあまり手が伸びないのですが、この賞の存続に貢献すべく、新刊を書籍で買うという慣れない行いを今後も続けたいと思います。

買い煽りみたいになってしまいますが、この本は今読む価値があります。
出版されたのが去年の11月のことなのですが、幸か不幸か、ものの数ヶ月でこの本には別の意味が生まれてしまいました。
その意味がわかる方にはぜひこの本を読んでほしいです。

あらすじ

独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵"とは?

考察

「死」に慣れる

まず初めに「死」の捉え方の移り変わりについてです。

主人公のセラフィマは、最初に仲間が死んだときに枯れるほどの涙を流していますが、次に別の部隊の仲間が死んだときには一滴の涙も流しませんでした。
セラフィマはこれを「あまりにも多くの死を見過ぎた」と表現しています。

これに関して、自分にもいくつかの心当たりがありました。

物語の冒頭でセラフィマの母親がドイツ軍に射殺されるのですが、正直言ってその時ほどの「死」へのインパクトは、読み進めていくうちには段々となくなりました。

この本を読むにつれて、自分も「死」というものに慣れたのだと思います。

もっと言えば、戦争というものを事実や事柄として受け止めるようになりました。

これが慣れることの恐ろしさであり、逆はありません。
一度慣れてしまえばそれが常識になるため、そこに平和な世間とのズレが生じます。
兵士の社会復帰が困難な理由はここにあるのでしょう。

平和に生きる人間がなにか言ってますね。

そして、ここで言う慣れによって強い人間になり過ぎたセラフィマは男の獣性が許せなかったのだと思います。
というよりは、男の獣性に嫌悪を抱きながらも、ここまで強くなれない女性は実際に言い出すことが出来ないのかもしれません。
男として気をつけたいところです。

ただ、戦争においては男も男で強くなりすぎた結果だと思うのですが、だからといって蛮行を正当化する理由にもならないので、これは難しい話だと思います。
後からいくらでも罰することはできますが、事件はそのときに起こるものなので。

国境で区切るか、仲間で区切るか、人間性で区切るか、性別で区切るか。

どこからを「敵」とみなすかは政策でどうにかできる問題ではないと思います。

個人的な意見であればその蛮行をした人間は「敵」として捉えられますが、いざ自分がその場に立ったとき、どれだけ平静でいられるかは分からないというのが正直なところです。
もしそうなったら誰か撃ってください。

視点を変え続ける必要性

狙撃兵は一度発砲をしてしまうと位置が割れてしまうため、定期的に狙撃ポイントを変更する必要があるそうです。

これを聞いて、なんとなく洗脳と似てるなと思ってしまいました。

同じ狙撃ポイントに居続けたら返り討ちに遭ってしまう。
たった一つの視点からでは物事を疑うことが出来なくなってしまう。

同じようなことではないでしょうか。

相手はその人の単一的な視点を狙って、有害な思想を言霊に込めます。
しかしそれが有害であると気付くためには、ある程度の場数を踏んでいなければ対処できません。

逆に言えば、自分達も知らず知らずのうちに狙撃まがいのことをしている可能性もあるわけです。

なのでここは狙撃手の流儀に則って、攻撃と防御を盤石なものにしておく必要があります。

狙撃手の攻撃で必要なのは詳細な空間把握能力です。
方向、距離、角度を目測によって目盛り単位で割り出し、正確な狙撃をします。

これに則った我々一般人の防御方法といえば、その情報がどのような意味か、どこから来たものか、どのような意図を孕んでいるか、などを正確に把握し、結論を導き出すことだと思います。
また攻撃方法は、これを応用して批判することじゃないでしょうか。

敵の物語を理解し、一枚上手をとること。
この本の中で散々語られていることです。

シャルロッタについて

話は変わってシャルロッタの魅力を語りたいと思います。

この本の登場人物で一番好きなのはシャルロッタです。
結婚したいくらいです。

戦争の終結後、さまざまな兵士が社会復帰の難しさに苦しんだ中で、シャルロッタだけはパン工場の職長として多くの人に好かれています。

こうなったのにはおそらく二つの理由があって、それらが重なったことでシャルロッタを輝かせているのだと思います。

一つ目が、愛する人を得たことです。

作中で、狙撃の名手であるパヴリチェンコは戦後の狙撃手の生き方について、愛する人を見つけること、生きがいを持つことを勧めていました。
そしてシャルロッタは最後、少なくとも一つを手に入れることができた、と言っています。

これはおそらく愛する人の方なのですが、シャルロッタの愛する人とは「仲間」ではなく「みんな」だと思います。
そして、みんなを愛するに至った経緯が二つ目の理由です。

シャルロッタは元貴族です。
ロシア国内では1917年に革命が起こり、農民、労働者のための社会主義国が誕生します。
作中でも語られていますが、この国で貴族として生きることの難しさは歴史が証明しています。
ある者は国外へ逃げ、果ては処刑される家族がいたほどです。

そんな国内情勢の中で、貴族として育ったシャルロッタが涙ながらに発した「プロレタリアート(無産階級)の家に生まれたかった」という言葉のねじれ具合がどれほどのものか、資本主義に生きる我々には理解し難いものだと思います。

そんな彼女にとって、第一優先はみんなといることであり、無産階級の人間として生きることが幸せで仕方ないという様相が作中からも滲み出ています。

ただ幸せな人間ならいくらでも居ますが、清濁併せ呑んで、それでも幸せを感じられる彼女の強さに惚れてしまいました。

そんな彼女を、同じ無産階級である自分も大手を振って迎え入れてあげたいのです。
なんていい子なんですかね。
この可愛さが伝わったでしょうか。

また、ロシア革命においてのスローガンは「パンと平和」だったのですが、そんなパンを元貴族のシャルロッタが作るというのも、作者の何かしらの意図を感じられて面白かったです。

感想

序盤で語った「別の意味」というのを含んでいるのはもちろんなのですが、純粋に小説として読んでもめちゃくちゃ面白かったです。
狙撃描写で目盛りを用いることによってさらに戦闘の臨場感を増して感じられましたし、主人公の心の変遷に自分もついていってしまうような構成になっているのもすごいと思います。
「戦争は女の顔をしていない」という秀逸なタイトルからも分かるように、戦争を一概に表すことは不可能なのです。
そんな中で、女性の狙撃兵を主人公としてその内部の歪さを描き切ったこの小説は、本屋大賞に相応しいものだと思います。
いくつか上述しましたが、生きる上での教訓めいたものも各所で散りばめられているので、読んで損をすることはありません。おすすめです。

そして今起きていることも、いつかこの物語のように語れる日が来ることを待つばかりです。

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