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場面緘黙日記-おせっかい先生②-

 前回の「おせっかい先生編①」はこちら↓

 前回の記事に書いた一件以降、私は「おせっかい先生」により苦手意識をもつようになった。
 あの後、先生から注意を受けた子たちは「ほんまにめんどくさいわ〜」などと不満を言っていたが、「あの子」に対する先生の対応については誰も言及しなかったことが、私には不思議でならなかった。「めんどくさいわ〜」と言っていた子たちでさえ、「あれもこれも先生の熱い愛情故のこと」と片付けてしまったようだ。


プリントがない


 ある日の帰りの会のことだった。
 いつものように、先生のお話の前に宿題のプリントやお知らせの紙が配布された。最後列の席に座っていた私は、前の子が手だけを背中の後ろに出して木にぶら下がっているかのようにだらんと垂らしたプリントを、軽く頭を下げながら両手で受け取っていた。
 その時、事件は起こった。宿題になっていたプリントが私にだけ配られなかったのだ。私の前の席の子までしかプリントが配られず、その子も私が後ろにいることを忘れていたのか、平然と手元の宿題プリントを見ている。

「どうしよう…このままでは宿題ができない。」

 ここで、「いや、先生のところへ行ってプリントを貰えば良いじゃないか!」と思った方もいるかもしれない。しかし、当時の私にはそれができなかった。まず、先生のいる教壇に行くのが怖かった。皆が「何だ何だ?どうした?」という好奇の目を向けてくるかもしれないと思ったのだ。そして、もし教壇に行ったとしても「宿題プリントが1枚足りないので1枚ください。」と言うこともできないし、メモに書いたものを持っていくというのも同様の理由で怖かった。
 「それなら帰りの会が終わった後に行けば良いのでは?」と思うかもしれないが、学校という場所にいる限り、そこにいる誰か1人にでも見られるのが怖かったのだ。
 「そもそも、『怖い』で済まさず、勇気を出せば良いのでは?」という声も聞こえてきそうだが、「怖い」にも色々な不安や複雑な感情が含まれているので、気合いでどうにかするのは本当に難しかったのだ。

 結局、その日は宿題プリントをもらえないまま帰宅した。
 帰宅後、「宿題プリントを提出できなかったら先生にどう思われるだろう」「もしかしたらめちゃくちゃ叱られるかもしれない」と思った私は、母に「宿題プリントがない。私だけ配られなかった。」と打ち明けた。すると母はすぐさま学校に電話をかけ、先生にそのことを伝えた。また明日プリントを渡すので、明日学校でやって提出するように、とのことだった。それを聞いた私はほっと胸を撫で下ろした。

おせっかいなお説教

 翌日、掃除の時間に先生に呼び出された。
私は教室にある先生の作業用机の前に立った。すると、先生が私にプリントを差し出した。なぜか目が怖い。
「何か言わなきゃいけないことがあるんじゃないの?」
と、先生は鋭い眼差しでこちらを見ながら言った。「言わなきゃいけないことって、ごめんなさいか…でもごめんなさいも言える訳がないしな。それにめっちゃ目が怖いし尚更無理だ…」などと猛スピードで色々と考えを巡らせた。重苦しい沈黙が続く。本当は1分くらいなのだろうけど、体感としては30分くらいだった。

 そして、先生は痺れを切らしたのか、
「何でプリントがないって気づいてたのに取りにこなかったの?プリント配ってる時に先生のところに来たらプリントあげたのに。言えないにしても紙に『プリント下さい』って書くなりしないと、−」
と勢いよく言い放った。
 そんなことはわかっている。わかっていてできないのだからどうしようもない。この時、既に私の顔は赤くなり、悔しいのか恥ずかしいのかもよくわからなくなって胸がキューとなっていた。

それでも先生のパンチは続く。

「それで結局お母さんに頼って。そんなんじゃ、一生お母さんに頼って生きていくことになるよ!プリントを取りに行く『くらい』自分でやりなさい!」


 うっ…その瞬間涙が目の方にぐっと上がってくるのがわかった。ぎゅっと瞬きをすればもう溢れてしまいそうだった。
 
「一生親に頼って生きていくことになる…プリントを取りに行く『くらい』のことができない私…」

 その後どうやって切り抜けたのかはあまり覚えていないが、最後に先生にハグをされて終わったことは覚えている。「早く話せるようにならなきゃいけないんだから、これくらいのことはできるようになろうね。」と勝手に作った目標を私の身体に押し付けるようにして。

サポートの前に

 4年生の終業式の日。
 家庭の事情で転校することになった私は、最後にクラスの全員とハイタッチをしてお別れした。その時、先生は「話せるようにしてあげられなくてごめんね~」と泣きながらハグをしてきた。全然嬉しくなかった。何ならちょっと軽蔑していた。
 
 これは後から母親に聞いた話だが、4年生になったばかりの頃の家庭訪問で、おせっかい先生が「私があの子を話せるようにします‼︎」と母に言っていたらしい。母親はその時、「素晴らしい先生だ!」と思ったらしいが、私はそれを聞いて一層失望した。
 本当に私が話せるようにサポートしたいと思っていたなら、なぜ私にそれを言わなかったのか。なぜ私のあの時の症状や困り事、そもそも私が話せるようになりたいと思っていたのかどうかを知ろうともしなかったのか。知らないから「プリントを取りにくる『くらい』」と言えてしまうのではないか。それでも情熱だけでどうにかしようとしたから、私はまた新たなトラウマを抱えることになってしまった。

 相手のことを思うなら、まずは相手の気持ちを知ることが大切なのだと改めて思った。




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