見出し画像

胎蔵界ドグラマンダラ

洞窟が好きだ。
中でも岩泉の龍泉洞には、何度も足を運んでいる。

閉山間際の恐山で、地獄巡りをしてきた帰りだった。
また入りたくなって、岩泉に来た。
大禍時にはまだ早いが、逢魔が時の闇が目の前に迫っている。
あわてて観覧料を払って、洞窟に突入した。

摩天楼、百聞廊下、玉響の滝、白亜宮…
壁をどろどろと這いずり回るかのようなフローストーンは、
ギーガーだったり、ガウディだったりする。
一番ぴったり来るのは、しかし、
内視鏡で覗いたひだひだの内臓だ。

潜竜の渕を通り過ぎて、守り獅子の前に立つ。
石の獅子に久濶を詫びて、さらに奥に進むと、
竜宮渕で若い女に遭遇した。

季節も季節、時間も時間なので、
洞内では誰にも出逢わなかった。
きょう出逢った初めての観覧者だ。

髪の長い女だ。
サーモンピンクのロングドレスのような出で立ち。

気になったのは、べったりした感じの髪の毛を始め、
全身が濡れたように見えることだった。
洞内の湿度のせいだろうか。

黙っているのもばつが悪いので、先に口を開く。

「こんにちは…」

「こんにちは。今からですか?」

「ええ、まあ…もうすぐタイムリミットですよね?」

「大丈夫ですよ。きょうは特別だから」

「特別って?」

「お祭りみたいなものかしら。
第四地底湖まで入れるんです」

現在公開されているのは、第三地底湖までだった。
水深120メートルの第四地底湖も未公開のはずだ。

「えつ?本当ですか?」

「本当ですよ。
だって、わたし今、泳いできたところですもの」

言うなり女は急ぎ足で、どこかへ消えてしまった。
カツコツと足音だけが反響し、干渉し、耳をかき回す。

第一地底湖水深35メートル、
第二地底湖水深38メートルを通り過ぎて
第三地底湖水深98メートルに達する。
世界一を誇る透明度は、41.5メートル以上といわれる。
ということは、それでも半分くらいの深さまでしか、
見えないということだ。

何かに引きずり込まれた。

冷たい水の中を沈んでいる。
と思ったら、少しずつ浮かび上がり、水面に頭が出た。

氷よりも冷たい第三地底湖を、当てもなく平泳ぎで泳ぐ。
が、次第に骨まで凍り付いて動けなくなる。

やむなく仰向けになって浮かんでいると、
腸の襞のような天井が、ゆっくりと動いているのがわかった。
流されているのだ。

第三地底湖を照らす照明がだんだん遠くなり、
とうとう真っ暗になった。
徐々に水温が高くなっていくような気がする。

なぜだかは、わからないが、
自分が明らかに第四地底湖にいることがわかった。

体が急に重くなり、頭から沈んでいく。
120メートル下で、湖底の栓か抜けたかのようだ。

いやだ、いやだ、出たくない。
外へなんか、絶対に出たくはない。


突然、光の中に出た。

途切れ途切れに言葉が流れる。

おめでとう…男の子…三千五百グラム…元気な声…

「生まれてきたのが、うれしくたまらないんでしょう」

この言葉だけが、はっきりと意識に上った。

違う違う違う違う違う違う違う違う違う…俺は叫び続けた。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?