見出し画像

意外と客観的な太宰治の『人間失格』

この項では、小説について書いていきます。

僕の小説の実績は、現時点では

2020年「四文転結の役」審査員別選5位入選。
(四文転結は、4つの文章で作る超ショートショート)

第223回コバルト短編小説新人賞「もう一歩の作品」

の2つ。10年以上続けて雑誌などに載った短歌と比べるとかなり?劣ります。

でも、この2回の入選で分かったことがあります。

小説とは、自分を表現するものではない、ということです。

小説は、自らを語るものではなく、他者を描くものです。もう少し突っ込むと、他者との関わりによって自らを解放するものです。

逆に言うと、つまらない小説は自分語りです。

まず、初めて入選した「四文転結」

当たり前ですが、たった四つの文章で出来ていても(だからこそ)他者がいなくては物語は成り立ちません。

上記の『親子と新聞』では漫画家のお父さんにとっての息子ですね。これでお父さん一人だったら物語は動きません。

詳細は次の記事で書きますが、コバルト短編小説新人賞で「もう一歩」に入った『地球留学記~パーフェクトフェイスは面倒の連続~』も、もう一人の自分というモチーフからヒントを得ました。

第223回コバルト短編小説新人賞のリンク貼ります

単に登場人物を増やす、というよりは自分と他者をコンセントで繋ぐのです。そうした小説は強いです。読むとエネルギーを貰えます。

そして、参考にしたいのがこちら。

Kindle版はこちら。

そうです。言わずと知れた『人間失格』です。僕は学生時代にこの小説を「究極の自分語り」と切り捨て、途中で読むのを辞めました。

しかし、この小説の主人公・大庭葉蔵はなかなかどうして複雑な要素を持った人物なのです。

そもそも彼が悩むのは、見つめすぎなほど他者を、世界を見つめて対峙しているからです。

そもそも『人間失格』は「私」が廃人と化した大庭葉蔵の「手記」という形で書かれた半生を読むことで成り立っています。

はしがき

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

太宰治『人間失格』の冒頭

この「はしがき」の後、第一の手記が始まるのです。

第一の手記

恥の多い生涯を送って来ました。

自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

太宰治『人間失格』の「第一の手記」

こうして始まる物語は、家族、同級生、恋人との生活が幾分共感を得やすいよう画一的に、そして伝わりやすいよう大袈裟にデフォルメされて描かれています。

葉蔵は常に他人の目を気にしています。それはつまり、常に他者との関係性を測っているということです。

葉蔵は弱い人間だとしても、この作品を見事に描き切った太宰は強さを持っています。それが弱さに裏打ちされていたとしてもです。

太宰は客観的に丹念に、葉蔵の弱さを描きます。昔はこの小説が遺書のように勢いで書かれたとの説もありました。しかし、太宰は創作ノートや決意を書き綴りながら構想を練ったことがのちの発見によって知られています。

そして手記の後に小説は、手記を読んだ「私」に葉蔵の知人、バーのマダムが話す場面で終わります。

「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
 何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

太宰治『人間失格』ラスト

これが救いであり、他者の存在であり、客観性です。このラストが無ければ、『人間失格』は名作だとしてもここまでの高みにはなかったでしょう。

「私」という観察者目線とマダムの言葉があってこそ、『人間失格』は文学性をもちえたのです。

小説に大切なのは伝える努力、そのためにはたとえ自分をモデルに小説を書いても客観性が不可欠なのです。

そもそも太宰治は、小学生の頃に作文の神童として知られるも中学高校の習作は振るわず、職業として作家を目指して数年後に名作を連発しました。

恐らく、

子役演技=作文

から、

名俳優=大人の小説

に移行するのに時間がかかったのでしょう。子供の頃に相応しい作文少年から、無頼派の作家へ。読む人がどう受け取るか真剣に考え、他者とのコミュニケーションをストイックに突き詰めた太宰ならではの現象です。

僕が初めて原稿用紙30枚の短編で名前が掲載されたのも、ささやかながら俯瞰した目を目指した末の結果でした。昭和の文豪どころか、趣味で描いてるアマチュアですが、もしよろしければ次回の記事もお付き合いください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?