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言葉による無血革命

原因がわからないこと

世の中は原因がわからないことばかりなのに、僕たちは何か明快な因果みたいなものを信じている。何かによって今、こうなっている。でも、その因果を解明することはできない。なぜなら、例えば風邪を引いた人がいて、A(風邪を引いた)なのは、B(体を冷やしたから)だからだ。一見理に適っているように見えるけれども、でも、もしかしたら全然違う理由かもしれないし、純粋にBという体験だけその人がしているわけではないので、どこまでBの影響かというのも明確にすることも難しい。よく考えてみると当たり前のことなのであるが、僕たちは、いつの間にかAだからB、Aなのは、Bだからだ。みたいな考え方をしてしまう。

でも、そもそも、風邪というものは、症状であって病名ではない。それを獣医学部の友達に教えてもらって初めて知った。風邪という病気はないのだと。極端な言い方をすれば、風邪というのは、原因不明。だから、世の中のほとんどの人は原因不明の病にかかり、医者は症状を見ながらそれを診断して、薬を出したり、対処する。それはそれで成り立っているようなので、それ以上のことは言うまいが、でも、原因がわからないので、また人は風邪になる。そんなことを人生の中で何度も繰り返す。

僕はこの15年近く、いわゆる治療とは関係のない形で、歯医者や眼科は行くけど、内科などに治療に行くことはなかった。だいたい1日、長くて2日間寝れば治るし、体調を崩しそうになったら先に対処することで、症状を悪化させることなく、対処できていたけれども、久しぶりに高熱が出て寝込んでしまった。それでも、熱は2日間で下がったけど、その前に、蕁麻疹のような発疹が出て、それが両腕、両足に広がりはじめて、結構悪化してしまったのだ。ここ最近では、何年か前(5年前以上前くらい?)にもあったけど、1週間くらいしたら治ったので、今回も治るかなと思っていたら、結構長引いてしまい、仕事の関係もあり、また、原因がもしわかるならと思って病院へ行った。

結局、原因は不明。アレルギーの時と似たような反応だ、と言われて、何かアレルギーはあるか? とか、なんかその時に薬を飲まなかったか? などを聞かれるが、特になしと答える。気になっていたのは、あるスーパーの弁当を食べてから急に出たので、個人的にはその中の何かが原因だったのではないかと。でも、それでも具体的に何かまで特定することはできない。わかったようなわからないような感じなので、結局何に気をつけなければならないかもわからない(普段はスーパーの弁当は食べることはないし)。今度、健診の時にアレルギー検査もしてみようと思ったくらいで、一応、アレルギーを抑え、痒みを抑える飲み薬と、炎症を抑える塗り薬をもらう。

薬は便利だ。久しぶりに文明の利器を使った気分になる笑。コンビニもほとんど行かないので、たまにこういうところへ行くと便利と感じるのかもしれない。今まで痒かった痒みが抑えられる。これはなかなか精神力だけではどうにもできない。炎症を抑えてくれると広がりが抑えられる。これも便利。どうしても何かしらに触れてしまう場所なので、広がりを防ぐというのはほぼ不可能だから。そういう点ではとても便利だ。でも、治りという点では、少し回復は遅くなったような気がする。結局、炎症を抑える分、治るにも時間がかかるのだ。一気にピークに達して、シュッと消えて行くというのがなくなった。ゆっくりゆっくりになっていく。そして、痛みや痒みという感覚が鈍る。今回は一時的だけど、この痛みや痒みすらも薬によってコントロールできてしまうということを知ってしまうと、人はきっと痛みや痒みなど不快な感覚を避け薬に頼りたくなるだろう。そして、快を与えてくれるものが現れればそちらの方へ・・・。でも、何のための痛み、何のための痒み、と考えた時に、必要だから起こっているのであって、あまり便利さに頼ると、後でそれなりのしっぺ返しがありそうな気がしてならない。もちろん、短期間で、しかも、治るということを前提に僕は考えているし、人によって感覚は違うのだから、当てはまらない人もいるだろう。

薬がいいとか、悪いとかではなく、薬とは一体何なのか? 考えるよい機会になったと思う。体とは、精神とは。なぜ痛みや痒みなんてものが存在して、体が病むと精神にまで影響を与えてしまうのか。この一体感は何なのだろうか(体が病んでいても、精神は明晰であったってほんとは良いのに?)。そして、原因なんてわからないこと。そう原因をはっきりとこれということはほとんどの場合できないのだ。なぜなら人生は複雑だから。縁起という仏教の言葉があるが、僕は原因とはそんな感じがするのである。

「縁起」とは「すべての存在は無数無量といってよい程の因縁によって在り得ている」という仏教の基本思想を表す重要な用語である・・・
(大谷大学HPより https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000q9z.html)

その無数無量の因縁から、今回の風邪や発疹の原因を特定することは不可能だろう。いや、特定な原因なんてそもそも存在しないのだ。じゃあ、どうすることもできないのか? そう。どうすることもできない。でも、僕たちには回復の縁起もある。自然治癒力も同時に働いているのだ。病気みたいなものが働いているということは、すでに自然治癒力みたいなものも同時に働いている。そして、それはそういった病状が現れた体の部分だけではなく、精神の部分もそうなのである。体と心、魂はつながっている。であるならば、縁起もまた体は体、心は心、魂は魂というわけではない。みんなつながっているのだ。目に見えるもの、見えないもの、すべてのつながりを感じること。それくらいしかできないな、と思う。それで、風邪が治るわけでも、何か成長するわけでもないけど、風邪で寝込んでいる瞬間は、どうしてこんな目に遭わなければならないのか、なんてことを考えている自分を観察し、治ってくると、そんなことを忘れて早く治るといいな、と感じている自分を観察する。そんなことの繰り返し。治ってしまえば、もうそんな自分は感じなくなる。もう前を向いている自分を感じる。結局、僕たちは今を感じて生きるしかないのだと。

でも、当分は(痛いのも、痒いのも、だるいのも)もういいかな笑。

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