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心がきれいな人

毎日のどんよりした曇り模様の天気に引っ張られて、今日は特に理由もなく落ち込んでいる。昨日までは元気いっぱいだった。知り合いへの不満がなぜか再燃し、不安定になるくらいには心がかさついている。昨日はその人に感謝しているくらいだったのに。人の心は本当にいい加減で、よくわからない。

そんな時は、決まって本を読む。他の人の生き方に触れるだけで不思議と落ち着くことができる。

今日は近くの図書館に来た。平日の図書館に来ることも慣れてしまった。来週から仕事が始まるからもう行けそうにないので、少し寂しく思う。

図書館は静かで、落ち着いて座る席もある。オススメの本を羅列したコーナーやイベント告知が貼ってある掲示板をみて、司書の方達の心遣いがありがたく感じた。人の気持ちがこもったものに触れると安心できる。

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先月まではコロナの影響で席に座れなかった。こうやって図書館で座ってnoteを書くことも当たり前ではないことを再認識する。図書館が利用できなかった時はイライラしてしまうこともあった。こんなに素晴らしいサービスを無償で受けられると感覚が麻痺してしまう。イライラする自分に、なんでイライラしているのか聞いてみたい。

心がきれいな人は、こんな時にイライラしないのだろうか。そもそも心がきれいな人はどんな人なんだろう。

ただ優しいだけだとなんか違う。人が不満を感じるタイミングで許せる人がそうなのか。でもそういう人は「もっと自分を持て!」と批評されてしまい、今の時代では生きづらそうだ。そもそも心がきれいな状態なんて人の解釈によりけりだし、自分で心がきれいだと自称して過ごす人はあまりいない。

他者の解釈に依存する「心がきれいな人」。有名人で1人挙げるならば、真っ先に思いつくのが石田ゆり子さんだ。有名人の本なんて滅多に買わないし、ましてやエッセイ本なんてほとんど手に取らないけれど、彼女の著作はエッセイ本含めて3冊ほど買ったことがある。

なんで彼女のことを「心がきれい」だと自分は認識するのか。それは彼女の日常に対する捉え方が素敵だからだと思っている。

彼女は自分で買った骨董品や家具に対し、独自のストーリーを思い描いて大事に扱っている。かと思えば、垢すりやフリーマーケットに参加したことだけで一つのエッセイが書けるなど、日常一つ切り取って感じたことを大切にしていることがわかる。

そして、自分の心が不安定な時があることをちゃんと自覚し、それに対して自己否定につなげるのではなく、あるがままを受け入れているように感じた。その積み重ねが現在の彼女の表情に表れている。本当に素敵な表情をする人だと思う。

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最近になって、人は本当に解釈の生き物だと思うようになった。何も生産的なことをせず、テレビを見るだけで自分を肯定でき、幸せに過ごせる人だっている。
自分の母親がそういうタイプだ。母親は僕とは正反対の性格で、文章なんて全くかけない。母親が100字以上文字を書いているところなんて、料理のレシピ以外に見たことがない。それでも今の生活に満足していると言っていた。そういう人の方が人生の満足度は高い。

心がきれいだからといって幸せに過ごせるとは限らない。それが人生の滑稽なところであり、面白い部分だと思う。

今回この文章を書いて、ここまで書くつもりはなかったし書いていて落ち込んでいた気持ちが少し和らいだ。本当に人って変な生き物……。

サポートを頂けたら泣いて喜ぶし、その感動をnoteで書きなぐります。