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中動態の世界と切断の問題〜『責任の生成』読書会感想〜

宇野常寛さんの主催するPLANETSCLUBの読書会で國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんの著書『責任の生成』の回に参加したので感想を書きます。


参加してみて

初参加だったのですがZoomは使ったことあったのですんなり参加できました。参加者の要約発表のあと初めてあった人達とのディスカッションがありましたが何とか喋れました。
そのあとは宇野さんのまとめと論点出し、90分程頭から終わりまで宇野さんの解説を浴びました。対話も大事ですが大量の情報を一方的に受け取るのも貴重な経験ですね。(褒めてます)
最後は質疑応答。参加者からの質問に議論が盛り上がりました。初参加でご遠慮ムーブかましたため、質問できませんでしたが、議論を聞く中で色々と自分の中で浮かんで来たものを以下に取り止めもなく書き留めておきます。

責任の場所と切断の問題

本文の議論は置いておいて、宇野さんの提示した論点の中で歴史認識についてある意味での切断がないと対話が進まないのではといったような問題提起がありました。
本書を通して「意志」は過去を切断するものとして、過去を引き受ける「責任」と対比され批判的に捉えられています。しかし、実際問題、国交などの対話の場面において常に過去の歴史を引き受けて話ができるかと言われるとどこかで「責任の場所」を設置しておかないと話が前に進みません。それよりも歴史認識について「単に気にしない」人が「友好的でありたい」といった気持ちの方が大事なのであり、その方が対話が前に進むのではというのが宇野さんの問題提起でした。これはある意味歴史(過去)を切断して考えることです。悪い言い方をすれば過去に目をつむる、過去を忘れるという態度です。
中動態的に考えることで意志を前提としない責任というものを問うことができる訳ですが、実際に現実の問題にそれを適用しようと考えた時にやっぱりどこかで切断(=決断)は必要になってくるのではないか?そんなことを考えました。

非意味的切断と享楽(浪費)の問題

國分さんがこの問題をどう考えるかは想像するしかないですが、「切断」というワードで思い浮かんだのが國分さんと同じドゥルーズ研究の哲学者である千葉雅也さんの「非意味的切断」という概念です。
これは意図してなにかを切るという行為のことではなく、なんらかの行為や出来事の予期せぬ結果として、あるいは各人の能力の限界によって、意図せずなにかが切れるという事態のことです。本文に出てきた言葉で表現するなら「〜なってしまった」のような状態のことです。
そしてこの切断に至る契機として千葉さんは「享楽的こだわり」を挙げています。要するに理由はないけど終わりにしようと思うということです。
ここで本の内容に戻りますが、この「享楽的なこだわり」と近いと私が感じたのがスピノザの「コナトゥス」です。コナトゥスとは事物が生来持っている、存在し自らを高め続けようとする傾向のことです。こんなまとめ方をしたら國分さんや千葉さんからは違うよと言われてしまうかもしれませんが、私の解釈では要するににどちらも「自分の好きなこと」を知り、それに沿って生きる、カッコをつけて言えば「吾唯知足」です。(違うかも?)
中動態における切断の問題はこの享楽的こだわりの導入によって解決するのではと思いました。そしてこの千葉さんの「享楽(的こだわり)」の導入は國分さんの「浪費」の話にも繋がってくるのではないかと思います。浪費とはどこかで満足してインプットを止めることです。それは言い換えれば自分の好き(享楽)を知ることではないかと思うのです。
(國分さんが「快楽」に関する文章を書いているのは知ってますが、「快楽」と「享楽」は概念的に微妙に異なるのでそこら辺でどのように國分-千葉ラインが繋がるのかは私の興味の中に留めておきます。)

享楽から文化ヘ、個人から共同体ヘ

しかしながら私の興味はちょっとだけ続きます。千葉さんの享楽はあくまで個人レベルでの切断(意思決定)に留まっているように見えます。しかしながら始めに宇野さんの問題提起から考えたのは歴史認識など国家や共同体といった集団レベルでの切断(意思決定)の話でした。個人ではそういった好みにしたがって決断することはできますが、集団ではどうでしょうか?集団的無意識を民主主義で表現してそれに従うのが良いのでしょうか?
そんなややこしい事を議論を聞きながら考えていて思ったのは「集団における享楽的なものは何か?」という問いと、そしてそれは「文化」ではないかということです。(何故か最近観た宇野さんとけんすうさんの対談動画を思い出してました。)
集団・共同体の好みとは、その集団らしさを表すもの、日本人における日本人らしさのようなものを考えた時に思ったのは文化のことでした。
日本の若者と韓国の若者がK-POPいいね、J-POPいいねと互いに褒め合い語り合う。そこには歴史認識のしがらみなどなく、ただ文化的な交流があるのみです。「文化的なこだわり」、文化を知ること、それを通じて語り合うこと、これが建設的な対話に繋がるのではないかと思いました。

終わりに

最後は中動態の話ではなく、共同体の対話に文化的な交流が大事みたいな話に着陸しましたが、読書会を通じて色々な考えが触発されたということでいいのではないでしょうか?
個人における享楽を知ること、共同体における文化を知ること、それを深めていくことで建設的な対話ができるようになる。そんな大雑把なまとめでいいと思います。
個人レベルでの勉強と文化的な探求をこれからも深めていこうと思います。

最後に大事なこと

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