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幸せになるズラ

幸せについて書かれた本をおそらく300冊以上読んできた。僕はそんな危険な状態にある男だ。

知らないひとからすると意外かもしれないが、「幸福」というのは一つのカテゴリとして確立されている。アラン、ヒルティ、ラッセルの幸福論を始めとして、130年前から今も続く一大ジャンルだ。

幸福論はアメリカでは大学の一つの学部学科としても認められている。我が国にもそういう名の新興宗教もあるぐらいなので、幸福を科学するという行為自体、人類に需要があるのだろう。
「すべての人間が幸福になるために頭を悩ましている」という説もある。

金欲しい、モテたい、ずっと家で寝ていたい、永久に酔っ払っていたい。

これらの欲求は約分していくと「幸福」という言葉に紐づいていく。

そして幸福について書かれたものの歴史は、段々とそれそのものではなく、成功したら幸福になれるのではなく『幸福だから成功する』と書かれるようになってきた。「色々上手くいくやつは暗くない」という理屈が証明され始めたのだ。

これら「幸せ本」はハズレがない。
評定などできないが点数をつけるなら読んでよかったレベル70点を下回らない。
こうしたら稼げる系、こうしたら成長する系、マンガ、小説、エッセイ……etc.

色々な書籍があり、どのジャンルもそれなりに当たりハズレがある。しかし幸せ系は芸人のエッセイぐらいハズレないのだ。

さて、では15年近く幸福系のジャンルを読み続けた結果、どうだろう。「じゃああなた幸せになりましたか?」と問われると何とも言えない。

ハッピー野郎になった肌感は皆無なのだが、かと言って成人してから一冊も読んでいなかったと仮定すると、自害して僕はもうこの世にいない気もする。「生きててよかった」という意味では死んでるよりはハッピーなのだ。

読みまくったおかげで幸福に触るためのテクニックみたいなものは、自分の中にいっぱい蓄えられている。しかし頭でっかちなのと、自由自在には使えるかはまた別の話だ。投げ方打ち方が分かっていれば、みんなが大リーグでMVPをとれるわけでもない。何事も「できる」と「知ってる」は違う次元にある。

「実際に幸福になれる」と「幸福への道すじを知っている」にはマリアナ海溝ぐらい深い溝が空いているのだが、後者も捨てたものではない。知ってるだけも全然悪くないと思う。
「幸福の道すじも知らないし、今後知る予兆もない」という状態よりかは遥かにいいからだ。

知識なんて実際には小さな差かもしれないが、その差が生死を分けているのかもしれないし、社会と関わっているか否かを決めているかもしれない。

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