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禁止令と学校

禁止が多いなぁ、と思う。駅も公園も禁止や注意喚起だらけだ。どこにいても「気をつけろ」と「やんなよ」が目に飛び込んでくる。


駅には歩きスマホ禁止。と書いているし、
公園にはボール遊び禁止、大声禁止、自転車乗り入れ禁止。
楽屋にも貴重品の管理の注意。


僕らが危ない目に合わないように注意してくれてるのは分かる。

しかし、それにしてもちょっと注意多すぎじゃないだろうか。


コレはなんか公園の注意書きみたいなやつだ。


僕がもしこの公園で遊ぶ子どもだったら
「もう、むしろやっていいことだけ書いてくんない?」と思う。


あまりに膨大な量の「気をつけろ」を浴びると、責任感がおかしなバランスにならないだろうか。

自己責任感を育む大切さよりも、浴びる注意の質と量に論点がいきそうだ。


「もっと分かりやすく注意しろ!」とか「もっといっぱい注意しろ!」ばかりで、「自分で気をつけよう」が鍛えられる気がしない。


僕は子どものとき、やって良いことと悪いことを色んな場所で学んできた。大人になってからも学んでいるけれど。

いつも自問自答し、思考していた。
具体的に書くと「これやったらおもろない!?でもやってええかな?アカンかな?」という思考だ。


自分で考えてるうちにルールや安全の中で、何かを創ったり、倫理観を整えられるようになるはずだ。そして守ったり破ったりして、失敗しつつ学んできた。

それを踏まえてコレをもう一度見てみよう。

こんな量の「やんなよ!」があれば、もはや思考などする必要がない。

完全にこれら注意書きに依存してしまえばいい。

失敗したら「この注意書きに書いてなかったから」と言えばいい。

この看板にはそれぐらいの全能感がある。

しかしそれが続くと他のことでも、失敗したときに「だって誰も注意してくれなかったんだもん!」というロジックを持つ大人にならないものだろうか。

もっと言えば勝負を仕掛けるタイミングで、責任感の無い斬れ味の鈍った人間にならないだろうか。

「そんなこと言って公園で事故が起きたらどうすんのよー!」とPTAみたいなおばさんに文句言われたらグウの音も出ないのだが大事なことってなんなのだろうか。

あまりに対策が目に入ると「人のためよりも、苦情やクレーム対策の意味合いが強いんじゃ」と感じてしまう。


社会に存在するすべてのルールは「禁止令」というカタチで通達されるのだな、とひしひし感じる。

僕が人生で最初に味わったルールは、たしか学校によるものだった。

きっと日本人特有の凄まじい規制スピリッツは、学校教育と無関係ではない。


「学校が認めた制服しか着てはいけない」という禁止令。
「土足で教室に入るべからず」という禁止令。

「バイト禁止」もそうか。「携帯禁止」もそうだった。

今思うと、「給食は残さず食べないとダメ」や「廊下は走るな」に「先生とすれ違ったら元気よく挨拶しろ」に至っては、人権侵害スレスレだ。

アレはダメ!コレはダメ!という禁止令を増やしていくことは、非常にコストの安い教育手法だ。ラクなのだろう。

とりあえず禁止の柵を飛び越えた者を、ぶっ叩いておけばいいのだから。


小四のとき、忘れられないエピソードがある。


その日は音楽の授業があったので、移動教室だった。
リコーダーの授業だったのだけど、僕は自らの4年5組の教室に笛を忘れてきてしまった。

音楽の先生に「リコーダーを教室に忘れてきてしまったので、取りにもどってもいいですか?」と聞いた。

教室は二つ隣りだったので、取りに行って戻ってくるまでで1分程度だ。

音楽の先生は二つ返事でOKだった。ちょっと急ぎつつ、僕は自らの教室に戻った。


真っ暗な教室に西日が差し込んでいた。すみっこで何かしらの作業をしている担任がいた。

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