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気持ちが落ちているときに重要な意思決定をしないようにしている。

生きていると重要な意思決定をする場面がある。
「青を切るの?赤をきるの?シンイチー!ラーン!」なんてレベルのことは毎日やってくるわけじゃないけれど、それなりの選択の岐路は訪れる。

その中には「これは大切なことだ」という選択もあれば、選択している意識すらないものまである。このnote記事だって、書くか書かぬかの選択を経て書かれることになったわけだ。

そんな大小の選択機会が周期的に訪れるが、つくづく大切なのは「間違えないこと」ではなくて「選ぶときの体調」だと思う。

僕は意識して、気持ちが落ちているときに重要な意思決定をしないようにしている。「今日はダルいから何も選ばない」という選択肢を選び取るようにしている。

不思議なことに人間は落ち込んでいるときこそ何かを決めつけ、極端な答えに走りそうになるからだ。
心当たりがある方もいると思う。テンション下がっているときに限って、一足飛びで解決しようとしないだろうか。気持ちが落ちると、考える力が低下するのか思考が短絡的になっていく。

最強の壊滅的選択は自殺にあたるのだろうし、命を失うよりは何倍もマシだが失踪なんかも極端な選択にあたるのだろう。
自殺者たちは死にたいわけではなくて、手っ取り早く生きる苦しみを解決しようとしているだけなのだ。とにかく急ぎすぎだ。

僕も「平常であればそんな選択をしなかったのに」という後悔がいくつもある。選んだ道でやっていかなくてはならないからもういいのだけど、振り返ると「寝てから決めればよかった」なんて思うこともある。寝る前と起きてからでは、おそらく答えは違っていたのではないだろうか。

「荒れた生活」の対義語が「丁寧な生活」なのであれば、丁寧な生活というのは選択を丁寧に行うということだ。

特別重要なことだけじゃない。毎日はささやかな選択の連続でできている。すべてを投げ捨てて寝てしまうということだって選べるわけなのだから「朝起きるか起きないか」の選択から日々は始まっているとも言える。

この比較的ウェイトの低い選択をしっかりこなしていくことこそ、丁寧さだと思う。そして丁寧さが持つ破壊力こそ耐久力がある。凄まじい選択だけが素晴らしい結果をもたらすわけではないのだ。

僕も芸をやる人生をそれなりの時間やってきたわけだが、いろんなことがあった。自分史上最大の偉業というのは分からないが、いくつか僕なりに「やったぜ」というものがある。

だけどそれはいつだってギリギリの選択の先にはなかった。ぼんやりとした選択を少しずつやってきて、その果てに褒美が置かれていたというような感覚だった。

ちゃんと生きる。というのは簡単でもあるし難しくもある。「ただ寝る!」とかだったりするのだから。

あしたは「さよなら、バンドアパート」の渋谷試写会がある。


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