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男のする男の話

年下が多くなってきた。

僕たちは生まれた瞬間から年上は減る一方だが、年下は増えていく一方だ年上は次々と死んでいき、年下は次々と生まれてくる。

「教わる」とか「説かれる」時間が減っていき、「教える」とか「説く」タイミングが少しずつ増えていく。年功序列がすべてではないが、やはり傾向としてみるとそうなる。

ここんとこ「教える」立場になったことがあって、そのとき気付いた面白い現象がある。

「人として」という話をした後よりも「男として」という話をした方がスッと入るのだ。みんなのその後のパフォーマンスも高い。

僕自身がバキバキの不適合者のくせに「人として論」をたまに説くときがある。

大変恥ずいのだが、あるのだ。しかし「これは人としては正しいけど、男としてどうだろうか」と思うことがいくつかあった。

男女入り混じっているときは面倒だから「男として論」なんてもちろん言わない。ましてや女のひとだけならばもっと言わない。

そんなある日、たまたま男しかいない場面があったのだ。そこで「せっかくだから、ここでしかできない話をするか」ということになった。

これがずいぶん盛り上がったのだ。本音もどんどんでてきた。

この経験から、何かをひとに話さないといけないシーンで、僕は「男として」という視点を使うことが増えた。マジで伝達の効果がやけに高いのだ。

もちろん人間として正しく生きようとするのは大切だ。でもそれだけでは男はパワーを失ってしまう恐れがある。

正直、20代のひとが「感謝」と「奉仕」ばかり言っている姿を見ると、そのひとの将来が心配になる。

時間厳守、身なりをちゃんとする、言葉遣いに気を付ける!が悪いわけでもない。むしろ素晴らしいことだ。だが、怖いのだ。
正論を振りかざして、間違った誰かををぶった切る人間に散々やられてきた僕としては「正しさ」はある意味、劇薬に感じてしまう。

それにいい男よりも先にいい人になろうとしすぎると、パワーのない頭でっかちになってしまうのではないかと思ってしまうのだ。

とにかく行動と体験、野望と希望、そしてミスって泣いて怒られて、時には反抗してもいいんじゃないだろうか。

誰だってエネルギーにあふれて間違いを起こす。でもそこで育まるものもある。まるくまるく角が立たないように失敗しないように生きすぎると、面白みのない男になってしまうんじゃないだろうか。

くどいが、正しく生きようとすることはすばらしい。しかし世の中は正しさだけではまかり通らないようにできている。

社会は小学校の学級会ではない。

矛盾ばかりだし、腹の立つ悪い人間も山のようにいる。権力や感情、そして個々人の都合。いろんなものが混じり合って成り立っている。

この中で正論だけを振りかざして生きるのは、幼くとられてしまう危険性がある。世界は助け合いと弱肉強食が混じり合っている。0と1では出来ていない。

もちろんその矛盾の中で正しさを追求していくのは大切なことだ。それが理性だからだ。

しかし実際は世の中というのは感情で動いているので、ときには清濁併せ呑むぐらいのゆとりがいる。そのゆとりができると男は少しだけ大人になる。

人間は二種類に分けられる。当然だが男と女だ。そして男には男のルール、女には女のルールがある。

必ずしもルールと、男としてのルールが一致するとは限らない。

たとえば他人と衝突したとき、手を出すことは絶対タブーではあるが、反論も何もできずにいると、残念ながら男としては失格のレッテルを貼られてしまう。

母親は「よく逃げたね」とほめてくれても、隣で父親はムスッとしている。では男にとって一番の基準になるものは何だろう。たぶんそれが「かっこいい」か「かっこわるいか」だ。

たとえばここに「弱いものイジメは良いか悪いか」という議題があったとする。これは「人として」間違っている。誰でもわかる。

では「責任を他人のせいにする」はどうだろう。これも「人として」正しくないだろう。

しかし男というやつは正しさよりも、この言葉の方が効く。

「弱いものイジメはかっこわるい」
「人のせいにするのはダサイ」

ほとんどの男は「間違ってるよ」なんて指摘されるよりも「かっこわるいよ」と言われると心が折れるのだ。


それだけ、男は美学やメンツで生きているとも言える。

だからいくつになっても「どうしたらかっこいい男になれるか」という話をすると盛り上がるのかもしれない。憧れの「かっこいい男自体」についても盛り上がる。これが「ジョーみたいに」の話をすると、止まらない。

ではどうしたら「かっこいい男」になれるのだろうか。いいかげん教えてほしい。

大事な人間を守る覚悟だろうか、ヤバくなったときに自己保身に逃げないことだろうか、「ここまでは許せるけど、ここから先は引けない」という自分ルールを作ることだろうか。

答えなんて出ない。だが、こんな話をしてから何かに取りかかるとやたらと質が上がる。仕事にせよ、遊びにせよロックバンドを作るにせよ、だ。

きっとこの「男として」の資質は後天的に身に付けるから面白いのだろう。つまり才能なんていらないのだ。

傷付いて泣いて、へばって、悔しい経験を積み重ねて磨かれる。もちろん誰にでも資格はある。良い師、良い戦に恵まれて強くなるシステムだからだ。

自分から逃げないで、おもくそやってみて、勝ったり負けたりを繰り返す。それでいいのだと思う。失敗ややりすぎ、脱線もいい。

思い切りやると何かを失うかもしれないし、大きく傷付くかもしれない。でも「自分で決めて自分でやる」という経験が魂に彫り込まれる。

その先にようやく「人として」という深いフェーズが待っているような気がして仕方ない。

こういうことを書くと「男尊女卑!女性差別である!」とかいうひともいそうだが、そういうつもりは一ミリもない。

だが最近、「差別である!」というひとも減ってきた気がする。なんかそういうの、もう終わってきてるのかもしれない。

僕の知り合いにはたくましい女のひとが多い。みんな自分の力で人生を切り開いてきたアーミー達だ。そんな方々が「そろそろ強い男に守ってもらいたいな」と口にするようになったのだ。

女のひとたちの疲れが見える。頑張りすぎたのだろうか。それか、僕たち男がここ10年20年ショボすぎたのだろうか。

「女はそんなに弱くない!」というひともいるだろう。もちろんそういうひとはそれでいい。それに越したことはない。

ただ全体的な流れの話だ。

男の子は小さいときからヒーローに、女の子はお姫様に憧れるのがマジョリティ、というだけだ。

我が身を捨ててでも周りの平和を守る男と、そんな男に守ってもらいたいという姫の願いが、成人してもブスブス不完全燃焼してるのかもしれない。

今年の僕は「こんなとき強い男がいればなぁ」と苦しむシーンが多かったから、余計に思う。

ヒーローがいたら潰れなかった案件が相次いだ。


QOOLANDだって僕がもっと強ければ、解散しないで済んだ可能性があるのだ。解散に後悔は無いが、今も自分の弱さが許せなくて眠れない夜がある。寝言ばかり言っていると、人間は離れていく。痛感した。

弱かったら大事なものすらも守れない。そんなに甘くない。正義無き力は悪になるが、力無き正義もまた寝言同然で終わる。

言うまでもないが「強い」ってのは威張ることでもないし、「俺は男だ!」と主張することでもない。

ヤバくなったときに危機をブッ壊す能力があって、冷静でハートがあって、器がデカくて、キッチリ馬鹿がやれることだ。そんな両津勘吉のような男を目指していきたいものである。



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