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【連載小説】稟議は匝る 2-2 札幌 2006年5月8日

2-2 札幌 2006年5月8日

初めての道でも、あまり迷いようがない。

釧路空港から市内は一本道だ。道路の側溝の辺りは十センチ程度の雪が積もり、見渡す限りの平野にも、ところどころ雪が積もっているが、2月だというのに黒い土が見えている部分の方が広い。寒いが雪が積もらないのは道東全体の特徴だ。景色も良くドライブ気分を満喫できる。

30分くらい走っただろうか。港の倉庫群に入ったところで先導車が止まった。山本が車を降りると地面は水分を多く含んだ雪で覆われていた。わざわざ磨いてきたストレートチップの革靴が半分近く泥に埋まっているのを見た山本は己の用意の悪さに心中舌打ちをした。だが降りるや否や早速長靴を履いている藤沢の解説が始まった。


曰く

釧路漁港は国内有数の年間水揚げ高を誇り、主な取り扱いは秋味、サンマ、助宗、タコ、昆布など。釧路は水産都市で、人口の3割は漁労のほか水産加工、販売、運輸、倉庫業など何らかの形で水産業に従事しているなど、山本の頭に次々と情報を詰め込んでいく。


無意識なのだろうがところどころで市場を指して「ミツウロコ」という。おそらく釧路漁港の地元言葉だ。荷受業者の家紋か何かに由来するのだろう。およそ銀行員らしからぬ表現を使う男だ。

細かく調べなくとも一瞬でわかる。この男は、どっぷり出向先の職員として、この町で生きているのだ。業務時間外だろうと、休日だろうと魚市場に顔を出してから出社する昔かたぎの銀行員であるのは容易に想像がつく。


ミツウロコの後は白銀水産の工場へと案内された。助宗の加工工場だ。助宗はスケソウダラのことで、卵巣は辛子明太子の原料になる。主にオホーツク海沿岸で底引き網や延縄などで漁獲される。傷みが早いため古くから蒲鉾などの練り物用としてすり身にされてきた。この工場は、助宗の魚肉部分をすり身にして冷凍保存するのがメインの業務内容だ。


鮮魚の流通量には限界がある。魚市場で捌きさばききれない分を加工することにより、鮮魚価格を安定させる機能も有している。助宗のすり身は、冷凍技術の進歩により、味の劣化が抑えられる。魚肉ソーセージやおでんの具など『SURIMI』という名で英語圏でも存在感を増しているという。


工場内では作業員の白い息があちらこちらで見られた。建築の素人にもはっきり分かるほど建物の劣化は顕著だ。換気や水捌けの技術が十分でない頃に建てられた工場は、風通しの良さだけで、それらの問題を解決しようとしているらしい。海沿いで潮風にあたり続けた建物は、海の魚と海水に接する設備を内に抱き、鉄は錆落ち、木材は腐食している。


この工場は収益上は会社の稼ぎ頭のようにも見えるが、減価償却を終えた設備で保守メンテナンスもろくに行わず、劣悪な労働環境の中で生み出している収益は「まやかし」と言ってもよいのかもしれない。財務諸表や、担保物件管理ファイルなど、机上では分らない現実がここにある。


・・・すべて経営陣の放漫経営のせいだ。


そう断じた山本の心中を察したように藤沢は頭をかいてみせた。


「本当に、従業員の皆様には頭が下がります。こちらに出向して、それが良く分かりました。こんな寒くて労働条件の悪い中、不平も言わず、事故もなく工場を稼働させているのですから」


どこか申し訳なさそうに藤沢がこちらの顔色を窺いながら話をつなげる。


「経営再建中でなければ、設備の更新をして、せめて外気の遮断だけでもできればいいのですが」


仕事柄、山本はこれまで様々な業種の工場を視察してきた。もちろん建築のプロではないので動線や効率などは全く分からない。しかし収益性の高い工場、いわゆる良い工場は共通項があった。それは掃除が徹底されているという一点だ。


5Sと言えば工場管理のイロハだ。しかし、実際それを徹底するのは難しい。特にここのように季節や品目で頻繁にラインの組み換えがなされる工場はなおさら、生産工程や生産ノルマを維持したうえでの掃除の徹底は難しいのだ。


だが建物の隙間すきまから光が差し込むほど老朽化したこの工場は、一見して奇麗にまとまっている。水産工場だというのに、でこぼこの床に水たまりもない。取引行の担当者が視察に来ると知って急遽、掃除した感じでもない。


おそらく毎日徹底して掃除をしているのだ。従業員のモラルの高さがうかがえる。

おそらくそんな良い賃金を得ているわけでもなくまた職場環境も一目劣悪だ。それでもここの従業員はこの工場を大切にしている。地元を代表する水産業に従事することに誇りをもって働いているのだ。

そんな風に、自分なりにこの工場の実態を把握しようと頭を動かしながら、白い息を吐く従業員を見つめていると、藤沢が小さな声で話しかけてくる。


「257人です。この工場の従業員数は」


この男はエスパーなのか。こちらの考えていることが見えているようだ。驚く山本の表情を知ってか知らずか藤沢は話を続ける。


「釧路は小さな地方都市で、人口18万人、就労人口8万7千人です。この工場だけで、就労人口の約0・3%を占めています。従業員の家族を4人家族と仮定して1028名の世帯人数、人口の約0・6%、傍目にはこんなボロ工場ですが、地域に必要な工場といっても過言ではないと思っております」


従業員を見やりながら藤沢はどこか愛おしいものを見るように目を細めた。


・・・この男は銀行員の鏡だ。

どれだけ計算機をたたくと、これだけの数字をすらすら言えるようになるのだろう。山本はその日初めて会った藤沢に対して憧憬に似た思いを抱き始めていた。

取引先に深く入って行って考え、寄り添い、諸問題を一緒に解決してく。それが山本が最初に志した銀行員の姿ではなかったか。・・・少年のころのあの日、自分が希求した銀行員の姿ではなかったか。知らず熱いものがこみ上げてきた内心の感服を気取られぬよう、山本はわざと大きな声で言った。


「釧路は本当に寒いですね」


倉庫街や、遊休資産の駐車場など、いくつもの物件を経て、11時30分、ようやく白銀水産の本社に到着した。


すべては藤沢経理部長の計算どおりなのかもしれない。


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