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【連載小説】稟議は匝る 3 札幌・すすきの 2006年5月26日

(札幌・すすきの 2006年5月26日)


5月の札幌。梅雨のない北海道は、湿度も低く冷涼な空気に包まれる。雪解けが過ぎこぶしも梅も桜も一気に咲く春もよいが、山本はこの季節が最も好きだった。


そんな札幌のススキノの夜。

ススキノは俗に東京以北最大の歓楽街かんらくがいなどと言われる。飲食店も風俗店も商店も何もかもが混在し、何もかも安いのがススキノ。北海道は、日本の水揚量みずあげりょうの約3~4割を占める。酒の肴の定番である刺身盛も驚くほど安い。カニやエビも産地値段さんちねだん。ホッケの塩焼きなどは、その大きさと脂の乗りに、誰もが驚く。東京で同じものは、そもそも食べることもできないし、二周りほど小さなものが倍以上の価格で提供されている。


北海道は土地も広くて、住居費も安いので、他県に比して物価が安い。また開拓によって切り開いた新しい街なので、昔からの地元民も少なく、よそ者に優しい街でもある。

転勤族では北海道に異動が出ると3度泣くという。1度目は、そんな寒い田舎へ飛ばされると言って泣き、2度目は北海道の人々の情の厚さに泣き、3度目は異動で北海道を去る時に泣くのだという。言いえて妙とはこのことだ。


そんな「ススキノ」の古くて汚いビルの地下1階。丸太をひっくり返したようなイスとテーブルに座って、山本は大熊勝子と飲んでいた。


お通しででてきたのは牡蠣かきの塩辛。塩辛は身が固く水分が少ないものしか適さない。北海道広し、といえども、牡蠣の塩辛がでてくるのはこの店だけだろう。店の若い主が、親友の漁師と一緒に開発したものだという。しょっぱいがうまみが濃縮されておりごはんが何杯でも食べられそうだ。当然、ビールもすすむ。


山本は見た目どおりの鯨飲馬食だが小柄な大熊も痩せの大食いを地で行くタイプだ。空腹も手伝って2人はしばしの間黙々とビールで料理を流し込む。


「山本先輩、前々から思っていた素朴な疑問なんですがぁ」


満足したのか若干呂律が回らなくなってきた大熊が話し出した。

「なんで銀行が債権放棄をしなければいけないんですか。借りたお金は返してもらえばいいじゃないですか。だって、真面目にこつこつ返済している企業がごまんとあるのに、たくさん借りた企業だけ債権放棄で生き残るなんて変ですよ」


大熊とサシで飲むのは初めてだ。酔ったふりをして真意を確かめているのか、そんな知恵があるのかもよく分からないが、とりあえず真面目に答えたほうがよさそうだ。


「理屈や利益もあるけど、銀行員として最初に考えるべきことは、事ここに至った経緯には、銀行の責任もあったはずだと考えることじゃないかな」


山本は呼び鈴を鳴らしながら酎ハイを飲み干す。


「銀行の責任とはどういう意味が教えていただけませんか」


大熊が丸太みたいな椅子に座りなおして真剣な目をしている。失礼しますと言って店員が注文を取りに来た。


「すみません、グラスワインの赤と白をひとつずつ、ナミナミと注いでくれますか。」


ナミナミとついでも価格が同じなのかは定かでないが、若くて愛想のよい店員が笑顔で応える。


「お任せください、ナミナミと注いできますよ」


山本がこの小汚い店には天使がいますよと思うのもつかの間、大熊のチャチャが入る。


「先輩、鼻の下が伸びてますよ」


きっと一瞬間抜けな顔をしていたのだろうと思うと悔しい。


「うるさいな、だから銀行の責任というのはね、企業が借りた金を返せなくなるのは銀行もそうなる前に回避することができたのではないかということよ」


極力キリッと答えたつもりもどこか締まらないのは酒の席なので致し方ない。


「回避するとはどういうことですか」


「例えば、業歴何十年といった企業は、本業で倒産することは珍しく、ほとんどが多角経営の失敗が原因だよね」


「そうですね」


やはり呂律ろれつが回らないのは酔ったフリだったのか、大熊は真剣に頷うなずいている。であればこちらも真剣に向き合わねばなるまい。山本はチェイサー代わりのお冷をぐっとあおった。


「多角経営をする場合は、多額の資金が必要だから、まずは銀行に相談するよね。その時、われわれ金融機関は、本来だったら、本業外のことに手を出すのだから、事業計画はより慎重にならなければいけないですよ、とか、不動産投資やゴルフ経営などといったまったく本業に関係ない事業は止めたほうが良いのではありませんか、などとアドバイスするのが銀行の使命だと思わない?でもかつての銀行は、そういった企業が誤った方向に行く局面に何も言わず、逆に自分の利益を優先して焚たきつけてきた訳だ。バブル崩壊などは、いい教訓じゃないかな」


「先輩がおっしゃるのも、もっともだと思うのですが、われわれみたいなペーペーの銀行員が企業に対して経営指導をする局面なんてあるのでしょうか。あったとしても、先見の明で、無謀むぼうな多角化を予見し未然に防ぐことなんてできるのでしょうか」


大熊は見たことのない真剣な表情をしている。


と、その時2人のテーブルに追加の品が運ばれてきた。


「失礼します。ナミナミのワインお持ちしました」


「すご~い、ホントにナミナミだ」


ついさっきまで真剣な表情をしていた大熊が、先ほどより一オクターブは高い声でチャチャを入れる。無意識なのか、あえて普段はそう振舞っているのか。多分後者だ。そう判じた山本は同じく軽佻浮薄な上司という役割を引き受ける。


「大熊、おまえも、こういう店員さんみたいな仕事ぶりを見習いなさいよ。ナミナミとついでも店の収入が増えるわけでもないし、店長に怒られるかもしれない。それでもこの店員さんは、せっかくの居酒屋だから、お客さんを喜ばしてあげようという気風きっぷの良さからでてくるサービスなんだ。でも、たったこれだけで、次もまたこの店にこようって思うだろ」


ねえ、と山本が同意を求めると店員は笑みをたたえた会釈を残して席を辞した。そうそう。こういう奥ゆかしさが女性には肝要かんようなんだ、と思いながらスタイルの良い後ろ姿を見送る。するとみるからに鬱陶うっとうしそうな表情で大熊が口を開いた。


「ほんと美人には優しいですよね」


「何を馬鹿なことを。といういうか、俺はみんなに優しいぞ。現にこうやって後輩を飲みに誘ってるじゃないか」


「ハイハイ分かりましたよ。・・・先輩、そんな感じだから後輩たちに嫌われるんですよ」


直球な言葉に思わず山本が素の表情に戻ると大熊はたたみかけた。


「えっ!知らなかったんですか。2階の若い担当はみんな嫌ってますよ」


心底驚いた、という大熊の表情が山本の心を容赦なくえぐる。


「・・・なんで、ろくに接点もないのに嫌われるんだ」


「さあ。でもどうせ、飲み屋で説教じみたことをしてるんじゃないですか」


「そんな訳ないだろ。そもそも、2階のガキどもと、そんなに嫌われるほど飲んだことない」


後輩の戯言と相手に声がんどん高くなっている自覚が山本にはあった。明らかに酔っぱらっているこのままだとよくないことになりそうだ。


だがその時

「まぁまぁいいじゃないですか、若い奴らに先輩の良さはわかりませんよ」


上げたり下げたり、こいつは本当によくわからない。


「先輩は、なんでうちの会社に入社したんですか」


呂律が回らないのか、ただ単にタメグチOKみたいな感じになっているのか、馴れ馴れしい感じが強くなってくる。


「特に理由なんてないよ」


「なんか、そっけないですね。今日は無礼講で行きましょうよ」


「バカ。無礼講は目上の人間が言うんだ。まぁいいけど、俺のオヤジね、昔、建設会社を経営していて、会社つぶしたんだわ」


「へぇ、そうなんですか」


「青森の田舎で、百人近い従業員がいて、田舎ではそれなりの企業だったんだけど、中学の時よ、親父の会社が倒産したのは。羽振りはぶりも気風きっぷもいい経営者だった。あちらこちらの保証人になっていたみたいで、知人の倒産のあおりをくって倒産したみたい。今でも憔悴しきった父母の顔と、債権者の怒号は脳裏に焼き付いている。」


大熊は静かに聞いている。


「田舎で会社潰すとホント惨めでね。だって、だれもが知っているだから、結構つらいよね。学校行くのが本当に嫌だったよ」


だが山本は歯を食いしばって学業に励んだ。「ここから出る」ためには、それしか方法がないと悟さとったからだ。


大熊の真剣なまなざしに気が付き、山本は、ふと我に返った。なんでこんな話をしてしまったのだろう。酔った勢いはおそろしい。


「それはともかく、俺が言いたいのは、我々銀行員が常に意識しなければいけないのは、銀行員の力ってこと。それは無限にあるよ、なんだってできる。たとえば、大熊がどんなに間抜けだろうと、取引先に行けば、経理部長や経理担当役員が対応するだろ、社長だって時間あれば、顔を出して、よくお越し下さいました、なんて声もかけてくれる。それは相手先がお前を評価しているわけでもないし、お前のことを気に入っているわけでもない、ただ単にお前が銀行員だから。いじわるされたら困るから、しょうがなくそうしているんだ」


大熊はムキになって言い返す。


「私は意地悪なんてしません」


「いやいや、そういうことをいっているんじゃなくて、銀行員は最初から強い力を持っているっていうこと。ほとんどの営業職は新規回りのノルマに追われ、相手先のキーマンに会うどころか、ほとんど門前払いだよ。ところが、お前や俺はどうだ。アポなしで取引先を訪問しても、常に役席が出迎え、適当なノンペーパーのアドバイスも、社内で検討しますなんて言われるわけだ」


聞いているのか、納得しているのかわからないが、生ビール大を飲み干して、こちらを真剣に見ている。ちょっと大きな声を出しすぎたと反省しながら、山本は声をおとして、話し出す。


「だから、俺は、取引先の経営が傾いたとき、銀行が債権放棄するのは当然だと思っている。そりゃ債権放棄をする稟議を通すのはちょっとやそっとの労力じゃないし、評価が上がるわけでもない。むしろあいつは会社の金を放棄して給料もらっていい身分だな、ぐらいの、陰口は一生言われ続けるよね。お前も2階のガキどもがそんな話をしているのを聞いたんだろ、いやいいんだ、でもね、銀行員が真剣に本当の銀行員らしい仕事をしていれば、手の届く範囲で世の中を変えたいと思っていれば、世の中の企業はつぶれないし、大げさな言い方になるけど、社会全体も住みよくなると思っているんだ」


大熊は、ウンウン頷きながら、呼び鈴を鳴らしていたらしい。お呼びでしょうかと言ってさっきの店員が注文を取りに来た。大熊が大きな声で注文をいう。


「生ビール大とグラスワイン赤と白ナミナミで」


「おいおい、まだ赤と白来たばかり、」みなまで言う前に大熊が遮る。


「山本さん、いい話を聞きました。今日は、とことん飲みましょう。はやくグラスを空けてください」


大熊が満面に笑みで続ける。


「天使さん、牡蠣かきの塩辛しおからも追加でお願いします!」


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