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大事なことはみんな知っているのになぜ解決しないのかについて、3つの観点から1つのサービスを作った話

いまと未来の子どもたちが自由に生きられる社会をつくるプロジェクト「soeru」の中で、and books issuesという取り組みを始めました。このnoteは、どういう思いでand books issuesというものを構想しスタートしたのかをまとめたいと思っています。そもそもなぜ起業して、なぜsoeruを立ち上げたのかということも書きたいので、それはまた別のnoteで。今回はあくまで、and books issuesの話をします。

最初に少しだけどういうものなのかを説明しておきますね。ページを見てもらえれば早いのだけれど、毎回テーマがあり、それに紐づく本が15冊程度選書されているので、その中から組み合わせ自由に3冊を選んでいただき注文できるという仕組みです。第1弾のテーマは「子どもの権利」。「世界子どもの日」である11月20日にちなんで、このタイミングでスタートしました。

企画監修のパートナーを認定NPO法人PIECESさんにお願いし、11月はオンラインイベントなども実施しながら盛り上げていければと思っています。


気持ちが入りすぎるという初めての経験

自分自身、ここまでの人生でけっこういろいろな仕事に携わり、その中には自分発信で立ち上げたものなどもあるのですが、今回ほど気持ちが入っているものはないです。

soeruはサービス設計自体がニッチを対象にしていることや、メッセージや価値の伝え方に試行錯誤することもわかっていて、なんならほんとに市場あるの?みたいに自分ですら思います。このあたりの思いは別noteにゆずるとして、そんな気持ちでやっているサービスに、さらに新しい取り組みを始めることはいろいろなプレッシャーの中でのスタートでした。いつもならもっと冷静に、ユーザーのニーズに合わせていくこととか、何なら即座の撤退を進言するようなこともある側な気がするのですが、ここまで自分の思想や気持ちがこもっていては、冷静に分離できず、日々悔しいなと思いながら、試行錯誤の日々です。だから、まだ全然諦めていないし、まだスタートラインにも立てていないと思ってます。こんな気持ちでいるので、日々の注文1件がめちゃくちゃうれしいし、応援されている気持ちです。本当にありがとうございます。

と、がらにもなく気持ちが漏れ出してしまったのだけれど、and books issuesの話をしたいと思います。けっこう長いし、回りくどいです。でもこれ以外の言い方では言えないような気がしています。読んでいただけるとうれしいです。

大事なテーマはわかっているはずなのになぜうまくいかないのか?

21世紀に入ってからもう20年以上が経った。なぜぼくらは、こんなに悲しいし悔しい思いをいまだにしているのだろうか。戦争はなくならないし、いまもジェノサイドがまかり通っているし、子どもが犠牲になっているし、なぜそれを国際社会は止められないのだろうか。

誰しも、戦争はいけないもの、爆撃は危険なもの、命は尊重すべきもの・・・ということはわかっているはずだ。さらに言えば、環境問題、教育問題、経済格差、男女格差、マイノリティ差別etc…と列挙し続けられるほど、地球で生きている誰しもにとって他人事でないテーマというのは、だいたいが出尽くしているはずだ。そして、立場や意見の差はあれど、それらが取るに足らないテーマであると考える人は少なく、誰しもが共通して、これらの課題はうまく解決されるべきだと思っているのではないだろうか。

編集工学者の松岡正剛さんはこのような時代状況に対して、21世紀は「主題の時代」ではなく、「方法の時代」だと言い、このように書いている。

どのような主題が大事かは、だいたいわかってきて、ずらりと列挙できているにも関わらず、それだけではけっしてうまくいかなかったのである。それゆえ、おそらく問題は「主題」にあるのではない。きっと、問題の解決の糸口はいくつもの主題を結びつける「あいだ」にあって、その「あいだ」を見言い出す「方法」こそが大事になっているはずなのだ。

松岡正剛『知の編集術』

この言葉を、ぼくはこのように解釈している。

大事なことはわかっている。何が問題として立ち上がっているかということもわかっている。けれどわかっただけではうまくいかなかった。なぜならいま直面してる問題は、実際は様々な主題=テーマが絡み合い、いずれかの解がすべてを解決することなどないからだ。ではどうするか。様々なテーマを結びつけながら、それらを一緒に取り扱い、複雑に絡まった事柄を解きほぐすような時代になっている。どのように関係線を引いていくのかが大事なのだ。

つまり出揃った問題をどのように解いていくのかといえば、問題同士を結びつけながら、関連付けを仮説して考えてみるということだ。ぼくはこのときに大事なのが、「自分と主題の関係線を引く」ということなのではないかと考えている。自分と主題を分けて考えるのではなくて、誰かの見方にのっかるのではなくて、すべてを自分と関連付けながら、関係線を引くということだ。

これがなかなか難しくなっている時代状況があるのがまたやっかいな部分なのだが。

私の世界はどんどん狭くなり、正解を社会に打ち返すことを迫られる

いまの社会は過剰に最適化されているといえる。例えば、Googleの検索結果は各々にパーソナライズされ結果が異なるようになっているし、amazonのトップページは各自の購買傾向にそってバラバラだし、手元のスマートフォンに流れてくる情報は、自分が「これが欲しかった」と思えるものが大半を占め、YouTubeのおすすめは、自分の好みが世界のトップトレンドのように見えるかもしれない。

テクノロジーの進歩によって、あなたの傾向を読み取り、あなたに最適化されたものを届けることが合理的とされ、そこに広告なども乗っかった結果、あなたが望もうと望ままいと、自動で最適化された情報が取捨選択され吐き出され続けている。このようなものがもたらす効果は、「フィルターバブル」と呼ばれ、問題視されている。

その本質は何かといえば、自分に最適化された選択肢の中でしか選択が与えられなくなるという環境になるということで、無自覚にその中にとどまり続けることは必然的に、思考や傾向が一方向にどんどん強化されることになり抜け出せなくなることだろう。

編集者の若林恵さんは、WIREDの「アイデンティティ」がテーマの巻頭言で「最適化されてはいけない」というタイトルでこのように書いている。

最適化という言葉には、現状をひたすら肯定し、ただ補強していくだけのような響きがある。未来の価値が現在との差分に宿るというのが本当なのであれば、「演算された未来」というフィルターバブルのなかには、薄まり先細っていく「現在」しかない。そこでは誰も、何も成長しない。飛躍もない。驚きもない。未来そのものが奪われているのだ。

WIRED, Winter2017 Vol.30

この文章は2017年12月に書かれたものだから、今から6年前のものということになる。このときに比べると、(ビッグ)データ解析やAIが先回りして「最適解」を導く社会はますます加速していて、思い込みや勘違い、ときには陰謀論と呼ばれるトンデモなものまでをフィルターバブルがどんどん強化し、Xを覗けば、今日も永遠に平行線の議論(とも呼べないもの)が当たり前に続いている。

世界像は個別最適化されたものになり、共通の問題を議論することがますます難しくなっているように見える。

では逆に、すべてに関してを自分の意志で決定する社会を望むのかといわれると、それも勘弁願いたいという気持ちになるのも正直なところだ。ずるいようだけれど、最適化されるところと、自分の意思で選びとる部分の両方がほしいのだ。それはそのまま、最適化された選択肢が提示されながらも、そこに含まれない選択肢を含めた可能性が見えている状態だといえるだろう。

最適化の何が気持ち悪いのかといえば、自分と関係線が引かれているはずなのに、その理由がわからないからだ。「あなたのような人たちは、このような傾向がある」という分析に基づいた関係線の引き方は、「私」を含んでいるようでいて、「私」を踏まえていない。「私」が属する(とされる)ものたちの集団から濾し取ったものを、「あなたはこれだ」と言われているような感じ。

ぼくはぼくの複雑さを単純化したくないし、たしかにある矛盾をないことにもしたくないし、そういう私自身として社会と向き合いたいのだというと、大げさだろうか。

けれど今の社会の中にあっては、無自覚のうちに、本来あるはずの選択肢はないものにされ、たまに見えたとしても、あなたには関係がないという言い方でキャンセルされてしまっているという状況は、「私」の世界をどんどん狭めていっているはずだ。

さらにやっかいなのは、個別最適化された世界像になったといいつつも、一部が共有/共感されうる世界像をもつもの同士が集うことがコミュニティを意味するようになり、帰属先として機能してしまっていることだ。これは極端に言えば、「あなたは間違っている。なぜなら私たちと考えが異なるからだ」という態度であり、落とし所を探ったり、論拠を用いた積み上げるような議論が生まれていかないことになる。

このような事態だから、どこもかしこも、あなたの正解を提示しなさいということになる。何を言うかがどこに属するかを示すことになるからだ。フィルターバブルでただでさえ少ない選択肢が、自らが何に属するのか(属していたいのか)という気持ちでさらに減る。しかも保留なんてしたら置いていかれたり、敵認定されてしまうかもしれない。その結果、(限られた選択肢の中からさらにコミュニティにとって最適なものを考える間もなく速射的に)正解を打ち出し続けることになっている。いま( )でくくった部分は見えないから、本来注釈付きの正解のくせに、正解として流通していってしまう。

ではどうすれば良いのかといえば、フィルターバブルの外に出ることだ。そして本来見えなくなっていた選択肢を見えるようにする。どうやってフィルターバブルの外に出るのかといえば、3つくらい方法があると思う。ひとつは、他者と話すこと。できれば時間を忘れて引くほど長く。もうひとつは、カメラをかかえて出かけて、自分のためだけに自分が好きだと思えるものを撮ること。最後に、本屋さんに行って、普段自分が手に取らない本を手に取ること。大半の大人は、まず絵本ゾーンに行って、絵本を手に取ると良い。

最初と2番目については、また別のところで書くとして、ここでは3番目についてだけ書きたい。普段手に取らない本に出会え、それも絵本だと尚良いということを少しだけ深く。

人はみんな自分のことを過大評価する傾向があるのだそうで、みんなそれぞれが他の人よりちょっと上だと思っている。頭の良さ、要領の良さ、見た目の良さ。なんでも良いけれど、過大評価している。その性質がフィルターバブルとも相性が良いし、正解強制合戦にも適しているのだろう。相手は馬鹿だと見下すことができるから。言い方をかえると、この自分が他者よりちょっと良いのだという自意識こそ、フィルターバブルを呼び込んでいるものだとも言える。この状態の足元をグラグラさせ、フィルターバブルが極まっている状態を抜け出すために、別の意見を自分に加える。

この最適な方法が、普段手に取らない本を読むことで、かつおすすめは絵本だと言いたいのだ。なぜなら本というのもは、それ自体が誰かの世界像を封じ込めたもので、吉本隆明さんに言わせれば、すぐれた本は「書き手が世界をあらわしたくて書いているもの」であるわけだ。だから本というのは、フィルターバブルの外側を見せてくれる可能性があるものなのだといえる。なぜなら、本を読むことは、自分ではない他者と自分の関係線を引くことで、それは最適化される前の作業になるからだ。

ただ普段読まなかったり、自分との関わりが見いだせない本を手に取ること、ましてや読み進めることは難しい。そこで絵本が良い。絵本は、関わりを見出して関係線を引くための穴ぼこや出っ張りがたくさん用意されていて、自分との関わりが見出しやすい。こんなこと考えたこともなかったな、こういう見方もたしかにあるかもな。そんな気持ちになれるのが、絵本を読むということだと思う。

まずフィルターバブルの外があるということに気づくこと、無意味な正解強制社会に距離をとること、そして本当に目の前にある選択肢を考えること。歩みをちょっと緩めるような、駆け足から散歩になって、ときどき立ち止まってまわりを見渡すようなイメージでとらえてもらえると良いのではないかと思う。

「私」の能動性と多様性を捨てずに、社会の構造と向き合うことはできる

社会学には、構造か主体かという問題がある。主体の個人としての自己決定に注目すればするほど、構造が免責されるというジレンマともいえる。例えば、戦地に赴いたジャーナリストが拘束されて危機に直面することはリスクを考慮せず渡航した自己決定の結果であるし、セックスワーカーが被る不利益は職業選択の自由のもとでの自己決定の結果だというような言い方で、構造と主体の問題は目にすることになる。

わかりやすく言うと、何らかの結果を、主体としての個人の自己決定の結果なのだと言ってしまえば、たちまち構造がみえなくさせられてしまうという話だ。この議論ではしばしば平行線になってしまっている事態が見られる。例えば、いまの日本社会には男性特権といえる「男性である」というだけで有する構造的利益があるが、これを構造として批判しようとする際に、「私はそんなことない」というかたちで、主体としての個人が利益を受けているかどうかを問題にするような返答が飛んでくる。このようなすれ違いが当たり前に起こっている。

逆も然りで、構造だけに注目してしまうと、たちまち主体としての個人が不可視化されてしまう。その結果例えば、セックスワークに従事する個人がみな同じ理由だということなどありはしないにも関わらず、大半がこうだというように、複雑なものが荒っぽい解像感で捉えられてしまうことになる。

このように主体と構造の両方を眼差しながら物事を考えることは難しい。けれどぼくは、いまの社会が抱える課題を解決するためには、主体と構造の両方を取り扱っていくことが必要なのではないかと考えている。

構造的差別や、構造的暴力というものがあり、それらを改めていくためにはまちがいなく構造を理解することは必要だ。その上で、構造を解体していくには、構造に関与している主体が、主体それ自身として構造を変えることに関わっていくことが重要だろう。ある社会構造を変えることは、図面の再設計のような話ではなく、その構造の中で生きている主体それ自身の振る舞いによって、変化するものだからだ。構造の圧力は主体よりも圧倒的に強いわけだが、その強さの理由のひとつは、構造によって強化されている無自覚な主体の存在が、構造を維持する方向で振る舞うからだといえる。

ちょっとむずかしい言い方になっている気もするけれど、言いたいのは、社会には構造的といえる問題がたくさんあり、それらは構造に参加している無自覚な主体が多数を占めるが故に強固であること。その構造を解体するためには、構造自体を知ることと共に、構造に参加している主体が自覚することが必要だという話なのだ。つまり、構造と自分に関係線を引くということだ。

これが、「私」の能動性と多様性を捨てずに、社会の構造と向き合うために必要だ。もう少し言えばこれは、私入りで構造と関係し語ること、つまり私自身の問題として社会問題を捉え、その解決にアプローチしていく態度だ。

この「私入り」というのがなかなか難しい。自分を特権的な立場——それはしばしば客席側からの視点のような——からものを言うことの方が簡単だし、何より自らの問題として捉えるときに生じる葛藤やためらいがないから楽だ。けれど、私抜きの言葉や立場や思想は、たちまちフィルターバブルにからめとらえ、私っぽい属性の多数の言葉に置き換わってしまう。

主体としてのみの振る舞い=自己決定、自己責任ということに問題を矮小化せず、構造として捉えること。その上で、構造と自分自身に関係線を引き、私に構造がもたらしているものを自覚すること。その上で、自らの意思によって、構造を解体/変容していくために振る舞うことが大事だ。

答えらしきものを仮留めしながら考え続けるという生き方の提案

ここまで書いてきたことを繋げていうと、大事だとされる主題や問題がずらっと並んだ社会にいるぼくたちに必要なのは、主題や問題自体を関連させて考えていきながら、そこに自分自身との関係線も引いていき、解を出していくことだと言いたいのだ。

そしてぼーっとしていると、自分自身のあらゆる行動から、あなたはこうだと勝手に様々な関係線が引かれ、それに伴ったフィルターバブルの中に投げ込まれてしまう社会だから、自分から、自分入りで関係線を引いていくことが大事だ。なぜなら最適化とは、あなたの本来あった選択肢を勝手に狭められていくことであり、それは可能性が奪われているといえるからだ。

これはつまり、ひとりひとりの考え方を持ちませんかという提案だ。「自分入り」、「私入り」という言い方をしているのは、自分自身はこのように思う・感じるということを無視せずに、自分だけの意見をつくりましょうよという話なのだ。なぜなら、いま社会を様々に覆っている構造的な問題を解決するためには、その構造を構成する主体が、それぞれがそれぞれに動き出し、新しい関係性を結ぶことが必要だと思うからだ。「わたしはこう思う」が他者同士で完全一致しての「わたしたちはこう思う」になることはなく、あるのは個々の「わたしはこう思う」を、語り合い、肩を組めるところを見つけ、かろうじて「わたしたちはこう思う」を見出していくことの連続なのだ。

そのためには、答えではなく、問やテーマこそ大事で、ひとつの正解をみんなで共有するような方向性ではなく、様々な見方があり、その背景には個々の「私入り」が潜んでいるようなものが交換され続けるような場が必要だろうと思う。

だから今回のand books issuesという取り組みは、今までに人類が人類にとって大事だと発見したり創造してきたテーマを、自分入りで考えるための入口になるようにと思って作った。テーマに対して考えを深めていくために必要な、足場となるような事実や考えは大事だから書いているけれど、これが真実だこう考えろという誰かの正解は書いていないし、だからこうしようとも言っていない。

この取り組みに興味をもった人がどんな属性で、どんな志向なのかも問題にしていない。それによって本のラインナップが変わることもない。入り口になるんじゃないかな、3冊それぞれと自分自身を、自分自身で関係線を作ってもらえることになるはずだという観点で選書もした。だからこの選書は、どちらかと言えばぼくたちが、自分入りで選んだ本だとも言える。それらに対してどんな関係線が引かれていくのかが見てみたい。

and books issuesで取り組みたいのは、この正解があふれる時代にあってそこから距離を置いて、あるテーマを自分入りで考え続けるということだ。本来あらゆることがそうであるように、わかりやすい正解などなくて、あるのは、いまの自分自身にとっての正解を仮留めしながら考え続け、ときには訂正し、行ったりきたりしながら、うーんうーんと考えることだ。

そのために、「必読3冊!」みたいなことはせず、3冊を自分で選んでもらって、本と出会うところから関係線を引いてもらえるようにしてみた。絵本から専門書ちっくなものまでなのも同じ理由だ。

子どもと大人が一緒に考えたり、ときには子どもの見方に大人がハッとしたり、子どもにとって難しい本を大人がガイドしながら一緒に読むようなシーンが生まれれば良いと思っている。そして大人は、「正解探し」をせずに、「こう思うな」をたくさんストックして、できれば誰かと話してほしい。

and books issuesは、本を売っているように見えるのだけど、このテーマについて一緒に考えてみませんか、いま一緒に考えている仲間がこんなにいるよ!みたいな感じで、ゆるいつながりと、多様な自分入りの意見みたいなものが集まることが価値になれば良いのではないかと思っていて、そういうものを提供するんだと思ってやってる。そのために必要なさらなる仕組みも、はやくつくっていきたい。

「知ってる」「わかってる」とかではなくて、たくさんの私入りの意見や考えを、ぼく自身もみてみたいと思っている。それをひたすら長くおしゃべりもしてみたい。その連鎖が、強固な構造を揺るがすし、解体していくことにつながるんじゃないかと本気で思っている。

さいごに:一緒に考える仲間になってください

こんな長くなる予定ではなかったのだけれど、and books issuesを始めた動機をまとめてみました。第1弾は「子どもの権利」です。子どもの権利は、子ども自身と子どもに関与している大人だけに関わることではないと思っています。すべての人が生まれながらにもっている人権とも切り離せません。

正解を知るためではなく、一緒にうーんうーんと考えながら、日々の暮らしの中でできたことやできなかったこと、やっちまったなぁって思うことを全部ひっくるめて考え続けるような取り組みに、一緒に参加してもらえるとうれしいです。ご参加待ってます。

ほんとに自信をもって選書してます。直感で3冊選んで、一緒に大事なことを考え続けてほしいのです。

ここまで読んでいただきありがとうございました。次回は、今回のテーマが「子どもの権利」になった理由について書きたいと思います。

and books issues #1 子どもの権利ページはこちら

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