鬱憤を書く
どうやら僕は幸せになってしまったみたいだ。それも、ドーパミン的幸福ではなく、オキシトシンによる幸せを。
ドイツにある小さな村で、同じ毎日の繰り返し。これといった刺激の少ない日々を過ごしているが、どうやら僕はそれで満足しているようだ。
お金があるわけでも、家庭があるわけでもないが、それとなく不自由なく暮らしていて、それで僕は十分満たされていて、、、、
ただ、それと引き換えに文章を書きにくくなり始めている自分に気づく。
というのも、僕はこれまで、自分の憤りや不満を文字に乗せることで、文章を深く味のあるものにしてきた。世間に対しての不満や自分に対しての鬱憤を言葉にすることで紡がれるクサい文章というのが僕は好きで、少し拗らせている人の文章を読むとどこか惹かれてしまう自分がいる。
憤りや鬱憤というのは、幸せと必ずしも対極にあるとは思わないが、幸福を手にいれていくことによって、少しずつ消えていってしまうものであることは間違いない気がして、文章を定期的に書きたい欲のある僕には少し不利に働き始めているのかもしれない。
のんびりとした田舎に暮らしているせいもあるかもしれないが、同じ年頃の若者が持ち合わせているである血気盛んなエネルギーは持ち合わせておらず、野心に火を灯すのも難しくなりつつある。
それくらい落ち着き始めてしまっていて、いいのだかわるいのだか。
昔からそういう野心があってどうこうという人間ではなかったが、それなりに憤りをずっと抱えて生きてきて、それが破裂した時に、様々な方向へ動き出す。アウトプットなり、大きな意思決定なり。ドイツに来たのも抱えきれなくなった鬱憤の破裂によるものだったと今では思う。
それが小さくなっていく悲しさを今夜は嘆きたい。そのために僕は手を走らせることになったのだろう。
そして、また新しい自分の表現を探しにいきたい。今のように鬱憤を文字に乗せる表現も僕は好きだが、また違った何かを見つける旅を始めたい。
わずかだが微かに見えているのは、研究と小説とエッセイとを混ぜ合わせたような方向性の世界。
そんなところがあるのか知らないけど、まあ旅をしてみる。「かくい(自分の名前」の「かく」は「書く」だったのかもしれないなという馬鹿なことを思いついた僕は、きっともう旅に出ているのだろうけど。
文章の向上を目指し、書籍の購入や体験への投資に充てたいです。宜しくお願いします。