釣具屋と異邦人

今日は久々のバイトだった。
店は30日から開いて、土日は観光客で繁盛したようだ。
しかし平日は厳しい。
ずっと本を読んでばかりいたので、いざ社会に出ると、緊張感で疲れた。
昨日マスクから膨らんで、どうでもいいことを色々書いたが、もっと書きたいことがあったのを思い出した。
だから今日は昨日の話。
だから今日は昨日の話って、それはじゃあ、いつの話。

夕方、友人と、晩の買い出しに出掛けた時。
釣具屋に行くというので付いていった。
実は私は、釣具屋にほとんどまったく行ったことがなかった。
釣りは数回経験しているけれど、正直全然興味がない。
それで、はじめて釣具屋に入って色々驚かされた。
まずは細かい道具の種類の多さ。
素人目にはまるで違いが分からない様々な釣り針やなんやら。
これはこの魚用、あれはあの魚用と、凄まじく差別化された専門用具にびっくりした。

目の前のすべてが、魚を海から引きずり出すためのモノだと思うと、若干の感慨を覚える。
これだけ分化した仕組みがあるということは、私が一括りに魚と呼ぶ、魚類は、非常に複雑なそれぞれの生態と特性を持っているということか。
多少は融通の効く万能な道具もあるだろうけど、魚一つ一つに注目していくと、あんなにもたくさんのディテールが必要とされるのだ。
これは奥が深いと思った。

漁船の釣りは、それはそれだろう。
デカい網をバッと投げたり、それはもちろんこれだけ人間が増えればやむ終えず、また、ビジネスの競争もあるから仕方ない。
けれど、自然に対する接し方としては、やはり乱暴なところがある。
まあ、これら釣具屋にある個人的な釣具と比較しての話だが。
網を投げたって持ちつ持たれつ、漁師の方は魚の生態系に人一倍腐心していることと思う。

次に、なにより驚いた、というか震え上がったのは、レジの横に並ぶ生き餌の水槽である。
薄く水を張った量り売りの水槽の中に、うねうねと何百匹もの青虫とか砂虫とか呼ばれる長いのがだんごになっている。
ミミズとムカデのあいだみたいな見た目で、水の中をのたうち回って、互いの身体がもはやどこが境目か分からないくらいに絡み合っているのだ。
私はこの手の生物は特に苦手なので、すごい顔をして硬直していた。
そしたら店のおばあちゃんに『お兄ちゃんの顔見て!あんたのこと食ったりせんけえ大丈夫よ。』と、笑われてしまった。

確かに見た目がグロテスクなのもイヤだけれど、それ以上に大量の同種の生物が折り重なって一挙に集められているのを見ると、どうしても苦しそうにみえて辛いのだ。
小学校の図書館でみたホロコーストの写真集さえ一瞬脳裏をよぎる。
きっと、これらの虫は痛みも苦しみも何もないのだろう。
でも、やっぱりどうしてそれが人間に分かるのか。
私はこういう疑念を追い払えない。
友人が青虫なるやつを500円買った。
500円は一枡らしい。
たぶん五勺か八勺くらいの枡だったか、それの中におばちゃんが手掴みで虫を詰めて、砂の入ったビニールに入れてくれる。
『ああ。』
どう言えばいいか分からない感覚が、私にはあった。

思い返せば、私の人間としてのはじめての挫折は、食物連鎖という概念を知ったときかもしれない。
いや、もっと遡れば、自分が生まれてしまって生きている、ということを認識した時点で、既に躓(つまず)いていたけれど。
食物連鎖の何が挫折かというと、この世の自然とは弱肉強食であり、生態系のピラミッドの循環によって世界のバランスが成り立っていると知ったとき、『あ、自分もいつか誰かに食われるのだ。』と、深刻な預言を受けたかのように感じたからだ。
個にとって、これだけ残酷な認識は他にない。

釣具屋のおばあちゃんだって、友人だって、素晴らしい善人たちに違いない。
青虫を捕り、それを売りそれを買い、金を得て魚を得て、他の生命を犠牲にして生きていく。
これは当たり前であって、自然の摂理であって、何も恐ろしいことはない。
それに痛みや悲しみも、これは悪とは関係ない。快楽や喜びと何ら変わらない、ただのリアクション。
むしろおかしいのは私で、私のような心持ちでいては到底生きていけない。
いやしかし、ではなぜ神様は、こういう世界の仕組みをすんなり受け入れる構造に人間を作らなかったのか。
究極的に言えば、私はそんなことをしてまで生きていたくはなかったのだ。
他の生命を取り込んでまで、何かを犠牲にしてまで生きる理由が分からなかった。
そうして存在する宇宙の循環の輪が恐ろしかった。
存在するということの根本原理がまるで不明瞭だった。
どうしてこう感じる仕組みに私を作ったのか、それをこそこの天地の創造主にお伺いしたい。

なかば投げやりになって、好きなだけ魚も肉も食い散らしては残して捨てて生きてきたけれど、どうしてこうでなければならないのか。
生きていたらそのうち分かると思っていたが、どうもなかなか分からない。
しかし、そうは言っても死んで分かる保証もないので、生きるしかない。
生きるしかない。
生きるしかないという衝撃。
この暴論。
生まれてきて祝福されるとは、一体どういう了見で。
別にまったく病んでない。
最初から徹頭徹尾、私の人生はこうなっている。
きっと実は、多くの人も秘めているだけなのではないか。
まあ、しょうがない。
釣具屋にて。