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求められる日本のリーダーシップ像

グローバル社会では、日本人のリーダーシップに対して疑問が抱かれている。

そもそも、リーダーというのは集団の意見をまとめて意思決定を司るのだ。

日本人は人種や言語、文化の壁を超えてリーダーシップを発揮することができる人が極めて少ない。

幼少期から「型」にはめられるように自分の意見や欲を抑えることこそが正義として教えられている日本の同調社会の中では、リーダーシップなど育つわけもないし必要とされていないのだろう。

なぜなら、意見が同じであるべきだとされている社会の中で意見をまとめる必要がないんだ。

むしろ、個人の意見というのはあるようでないのだろう。

集団の決定が個人の決定である。

同じ制服をきて、同じ食事を食べて、個人の希望には反する形で「みんながしているから」という理由で部活動に入部させられることだってある。

日常の中に、国際社会から見るとおかしな点が散りばめられている。
人々が同じ価値観を持って個人の欲を抑制することを日本の社会は暗に求めているのだろう。

そして、この「型」からはみ出してしまうと日本の社会から叩かれてしまうんだ。

子供の頃から自分の欲を抑制することに慣れている日本人は自分を理解している度合い(Self Awareness)が低い。

自分の欲に正直に生きることができない社会ではそうなるのは当然のことだろう。

そうすることによって、自分が一度きりの人生で何を成し遂げたいのか、どんな人生を送りたいのかというのがわからないんだ。

世界では、人種や宗教、言語や貧富の格差などあらゆる部分での違いが同一の社会に存在している。

「個人の欲」がそれぞれ好きな方に向き、飛び交っているのだ。

何が正しいではない。それぞれ違いを持って生まれてきているんだからそんなのは当たり前なのだ。

だから、こうした社会の中で組織を束ねようとすると圧倒的なリーダーシップがないとコントロールできないのは想像に容易いだろう。

いちいち他人の目なんて気にしない。
自分の求めるものを必死に取りに行く人生がそこには広がっている。

日本では、「自分の欲を抑え、周囲のことを考えること」こそが教育として求められていると思う。

個人のやりたいことを本気で考え、向き合う時間というのは圧倒的に少ないだろう。

知らず知らずのうちに、他人に合わせる選択を繰り返している。
そうすることで日本という社会を生きるための摩擦を軽減することができるんだ。

本来は、自分の希望を持ち、自分の人生を生きることを全力で追求するべきではないだろうか。

現に、日本で活躍をして一目置かれる存在の人たちというのは「変わっている」と表現されることが多い。

彼らが変わっているのではなくて、僕たちがみんな無意識下に同じであるべきという操作をされた大衆社会を生きているんだ。

まずは、日本人がこれから世界で戦っていくためには個人の意志を強く持ち、それを育てる環境が必要だと思う。

人と違うことなんて悪いことではない。
それは個人の武器になり得る可能性なんだ。

そして、違いを受け入れることと、それを束ねる際にはこれまでのように同調性ではなくて、協調性という武器を発揮するべきだと思う。

「僕はこういう意見を持っているけれど、彼の言っていることも理解できる。」
そうやって違いを擦り合わせていく。

個性を持つことはこれから日本が世界で勝ち残っていくためには極めて重要な要素だと思う。

しかし、同時に違いが交錯し続ける社会では摩擦が生じて居心地が良くないのも事実ではないだろうか。

「同じであるべき」ではなくて、組織や集団としてどれを選択するのかという「協調性」が日本の武器になるんだと思う。

そんな協調性を発揮する際に、個人の欲に共感して、個人の目標から組織としての目標へと周囲を巻き込んでいく存在がこれから日本に求められるリーダーシップ像ではないだろうか。

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