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ユニバーサルデザインのユニバーサルなエゴ

武蔵野美術大学大学院 クリエイティブリーダーシップコース クリエイティブリーダシップ特論Ⅱ 第14回目 2020/08/17
ユニバーサルデザイン総合研究所所長の赤池 学さんにお話を伺う。

赤池さんはもともと生物学を大学院で学ばれていたが、デザインに興味をもち、工学、理学を学び直してデザインに携わられた経緯があるそうで、社会問題と向き合うユニバーサルデザインを様々なアプローチで実現されている。

イノベーションデザイン

イノベーションについてのお話

着想:ソリューションを探り出すきっかけ
発案:アイディアを創造、構築、検証するプロセス
実現:アイディアをPJルームから市場へと導く行程

イノベーションは物語
”私たちがデザインをしようとしているものは、名詞ではなく、動詞”
たとえば「電話」(モノ)をデザインするのではなく、「電話をかけること」(経験)をデザインするということ。

今後はさらに学際的知識を持ったクリエイター重要になってくると話されている。

ユニバーサルデザインの事例

ユニバーサルデザインというとみんなにとっていいデザインということなんだと思う。その”みんな”の部分がサービスやものによって変わってくるのだろう。
赤池さんが関わられたユニバーサルデザインのいくつか事例を紹介していただいた。

●たねや

近江八幡で有名な たねやさんの事例では店舗は滋賀らしいデザインで建てられているが、店員にユニバーサルデザインの教育をすることで、利用客にとってのユニバーサルデザインを実現しているそうだ。

●Light & GRANDMALE

お年寄りの命に関わる問題となっている誤嚥性肺炎を抑制するために新しいカトラリーをデザインし普及を目指す取り組みの紹介。ユニバーサルカトラリーの「Light」を三國清三シェフが感性品質を向上させた形でプロデュースされたGRANDMALE。機能性を備えながらも美しく食事の環境にフィットするデザインであり、著名な三國清三シェフがインフルエンサーとしての役割も担うことで利用者を増やし、誤嚥性肺炎を抑制することにつながるという一連の構造がデザインなのだと感じた。

●ダイヤログ・イン・ザ・ダーク・タオル

今治タオルを製造している田中産業株式会社とのコラボレーションプロジェクト。触覚など繊細な感性を持つ視覚障害者の方とタオルを開発され、特別な肌触りの製品が誕生したそうだ。このお話の際に印象的だったところは、視覚障害者はケアをする対象の弱者として扱うのではなく、感性のアスリートとしてその能力を頼ることで、より優れた製品を生み出せたというお話だった。

未来型社会仮説

講義の後半には、より大きな視点の話があり、2000年以降どんな形で社会のテーマが変わってきたかのラベリングの紹介があった。2020年以降は”心と体の豊かさ、快適さを求めつつ自然や社会との調和を目指す”自然化社会になっていく、そうしていこうというような意思を感じるような内容だった。

地球の物理的限界に対する認識の広まりと、情報の民主化が原動力になり、物質的な豊かさを追求する人間中心の社会から、心と体の豊かさ、
快適さを求めつつ自然や社会との調和を目指す方向性へと変革することが予想されます。

2000      2011       2015       2020
自動化社会 → 最適化社会 → 自律化社会 → 自然化社会

◾️ライフスタイルの要素で人が潜在的に求めているものの調査結果では以下の順で回答が多いそうだ。

1. 利便性   22.1%
2.楽しみ   20.7%
3.自然    19.9%
4.自己成長  13.8%
5.社会と一体 11.3%


求めている要素として自然や社会と一体という言葉が出ていることから、今の時代の人々が求める快適な暮らしというのは、個人の自己完結できる範囲ではなく、自然や社会との接点というところと切り離せないという意識が見られるのだと感じた。

洞爺湖のゼロエミッションハウスの取り組みや昆虫の生態にデザインのヒントがあるお話など、時間の関係で詳しくはきけなかったが、自然と向き合った人の暮らしというのはとても興味深いお話だと思った。

思ったこと

ちょうど良い暮らしができるといいのだろう。

昨今では地球環境の問題、気候変動、海洋ゴミの生態系の影響など、人間の社会活動の話が出てくる。

同じ状況の地球が2個あって比較できる訳ではないので、今報道されているような気候変動など自然環境の変化が全て人間の活動の結果なのかどうかということは、誰にも判断できないのだろうと思う。

でも自分ら世代の人間の感覚からして、夏は年々暑いし、山はよく燃えている。排出された海洋ゴミの行方や影響の多くはまだ解明されていないようだが、大気も海も直感的に汚さない方がいいと大抵の人は思っていると思う。

ユニバーサルデザインという言葉はものによってどのレベルでみんなが嬉しいもののことを話しているのかは専門家でない私にはわからないことが多いし、ユニバーサルデザインというものの解釈がずれていないかもわからないが、簡単にいって みんなにとって悪くないものなのだとしたら、この”みんな”範囲はどんどん広がっていくのだろうと思う。

含まれる”みんな”が増えると”みんな”の中でも誰が嬉しいことの優先度が高いかが浮き上がってきてしまったりとか、私は”みんな”の中にいれられているようだけど別に嬉しくないというようなこともあるのだろう。

例えば、奈良公園付近では鹿がよく道路を横断するので、鹿と運転者の安全のために仮に鹿用通路を作ったとする。でも鹿にとったら今その瞬間その道を渡りたかっただけで、鹿用通路を歩きたい訳ではないんだけどなという風になると、そこを使わないだろうし結局は人間側の都合だけのデザインである。そこにもし、鹿がこっちの道を自然と歩きたくなるとか、どうせ渡るなら絶対ここを通りたいと感じる何かの仕掛けがもしあれば、それは鹿と運転者、近辺の生活者にとってのユニバーサルデザインとなるのかもしれない。

そしてさらに自然現象を相手にするとなるともっと高い視座と分野横断的知識や視点が必要になり、どんどん高いデザインスキルが必要とされる時代になってくるのだろうと感じた。

前述の通り、現代人は暮らしに自然を求めているらしい

現代人が求める自然の形やイメージ、とずっと変わらない厳かな自然
ギャップもあるのだろう。どこで育って今どこにいる誰が思うかでもきっと大きく違う気がする。何があれば自然が豊かと感じるのだろうか。
いずれにせよ、その人に取ってちょうど良い暮らしができるといいのだろう

大学卒業まで奈良の田舎の畑付き一軒家で育った私は、今、東京のメガ団地の両隣の家庭とコンクリートの壁で区切られた、大きな箱の中の一つの空間で暮らしている。(箱を出ると棟の間は公園のような中庭で木々は植えられた公園になっていて全く無機質とも言えない感じではあるが。)

都内で疲弊した感覚を得がちなのは、田舎の風や匂いや日差し、空と地面の距離の感じ方など当たり前に気持ちのいい環境も知っている気がするからかもしれない。
一方で同じくらい居心地の悪い田舎も知っている。雷雨の時の外に出たら死ぬなという感覚や、何とも言えない暗闇が恐いと感じる瞬間、虫や爬虫類や動物を目にすることも多いし、できれば近づいてこないで欲しいと思っている。
梅雨の日の道路はたくさんのかえるさんがお潰れになっているし、10代を暮らした環境は心地よく快適な暮らしでないシーンも多かった。
ついでにいうと、耕運機や草刈り機はうるさいし、近所で畑を焼かれると煙い。近所の田んぼは全部なくなればいいと思ったりもした。

そして東京に移り、たまに地元に帰ると、虫食いだらけの採れたての野菜は美味しく感じる。田んぼがなくなって駐車場やアパートが増えているのを見ると、少し寂しい気持ちがする。勝手なものである。

自分にとって田舎暮らし、自然に接するということの要素には少し厄介な気分や恐怖や畏れ、自分ごときがどうにもできない巨大な何かのお世話になっているという感覚があるのだろうと認識した。健康的で制御された美しく快適なリゾートではないのだ。団地の公園が作り物で自然だと思えないのは、きっと恐ろしくないからだろう。

前置きが長くなったが、そんな自分の感覚からして、最近思うことは、高度なデザインとテクノロジーを駆使することで、うまく大きな自然の営みに乗っかり、結構快適さも確保できるのではないかと思っている。
自然をコントロールしようとするのではない。

地域立地に応じた再生エネルギーなりを駆使すれば、家電も省エネ化しているし、自家発電の最低限の電力でも生活できるのだと思うし、近隣で電気のおすそ分けとかもできるかもしれない。必ずしも電力を必要としないようなデザインの生活ツールも増えていくのかもしれない。半手動洗濯機とか、ジムやジョギングで発散するエネルギーも家庭のエネルギーに使えればいいのにとか妄想をしている。一回の洗濯で何カロリー消費して、チェストプレス何回分の効果とかそれっぽい表示が出るとか。
あと畑に出た時に虫や爬虫類があっちに行ってくれる装置は欲しい。

今の感覚でちょうどいい、人のエゴと地域と生態系のユニバーサルデザインが自分の生きている間に実現できればいいなと思っていることを合わせてクリエイティブリーダシップ特論Ⅱの最終回エッセイとして閉じようと思う。



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