24年前に書いた自分への手紙を読んだら、未熟さと後悔を思いだした話
未来の自分にあてた手紙を2通もっている。
18歳の時に書いた25歳へ
25歳の時の書いた32歳へ
なぜか、7年スパン。
そして今、42歳。
35歳の時もし、自分へ手紙を書いていたら今年読めてたのかと思うと非常に残念…。
35歳の当時は、仕事が激務すぎて主人には育児戦力外通告が!
2歳差×3児をなんどきもワンオペ育児に翻弄されて、手紙をしたためる時間はなかったのだろう。
小さき者達を3人生かすだけで日々を消耗していた。
ペンを持つ時間があれば一刻も休みたい…手紙が残っていないのはそんなところだろう。
昨晩、18歳と25歳の時に書いた手紙を読みかえしていた。
18歳のわたしは25歳のわたしにどんな仕事をしているか?
結婚はしているか?
に、とても興味をしめしていた。
今回は25歳のわたしの話を。
25歳のわたしは結婚していた。
そして
25歳のわたしはショムニを地でくようなOLの中のOLだった。
あらゆる庶務を担う課で江角マキコのようにショムをニしていた。
採用項目は会社の受付だったはずが…
営業事務やその補佐、発注伝票をきったり、資料作り。
メインジョブの来訪者の受付、備品の発注に、商談の会場や、ランチの手配。物流の方で要請がかかれば品出しにも駆り出される。
忘年会シーズンは会社の全ての課の忘年会をフルアテンドとフル参加。
タダでお酒が飲めるからいいーやんとかがひがまれたりしたけど…
わたくしお酒飲めない。
だけど昭和生まれのOLはそんなのカンケーネー
人生で飲めないお酒を一生分飲んだ数年。
慰安旅行にいけば夜に開催されるビンゴ大会の景品買い出し。
仕事納めに社内でもちつき大会。
なぜにこんな日に…もちなんかこれっぽっちもつきたくなかった。
みんなが散々もちをついて食べちらかした後はダスキンでリースしたうす&杵をひとり給湯室の狭いシンクで洗う。
はよ帰りたい…。クソーもち米とれねー!
ボーリング大会も毎年の恒例行事。
となれば手配とこれまた景品の買い出し。
OL時代、何回ドンキに景品の買い出しにいったことか。
大会当日、ボーリングのタマに色んな念を放り込むことに成功し、呪いのパワーで社内女子社員の部2位!
自分で買った景品を自分が奪う荒行。
恒例行事がほんとに多くて、まだある、冬になればスノーボートバスツアーなるものがあった。
一度、退社して夜に再び会社に集合。
金曜日22時会社発のバスにのりこみレッツ雪国へ~
もちろんアテンドとバスで飲むお酒おつまみの買い出し。
週明けの月には通常の し・ご・と
18歳のわたしはきっと自分は特別な人間で、自分にしかできない何かを成しえいて欲しかったのだろう…。
何者にもなれなかった25歳のわたしは、何者でもできる仕事をしていたよ。
会社勤めの経験は全てが新鮮で強烈で仕事の責任と大人の世界の参入が誇らしくもあったけど、つまらなかった。
こんなことのための大学を出て、大人になったんじゃねー!!!と叫びたくなるよなOL生活だった。
出会いや楽しい経験もあったけど数年が限界であった。
今、振り返ると後悔している。
OLをしていたことにじゃない。
そんな気持ちでしかOLをしてこなかったことにだ。
全部やらされる感でしていたクセに、そつなくそれに応えるわたし。
顔ではニコニコして、みんなからあだなで呼ばれたりして、ヘラヘラしてたけど心は完全に鎖国。
たまたま社内の人間だから円滑な人間関係を営んでいるだけ。
心ではみんなをどこかでバカにしている恥ずかしい人間だった。
自分の友達や家族といる自分が本当の自分。
会社の中の自分は演じられた自分。
そうすることで自分はここにいるような人間じゃない!と自分が何者にもなれない怒りや焦燥感の八つ当たりしてただけ。
その時の仕事を心から愛し
その時出会った上司を尊敬し
その時ついた餅を楽しく食べて
その時買い出した景品を純粋に喜んで貰いたの気持ちで選んでいたら…。
その時、あの時、この時、どの時も
一つ一つを大切にしておけば…もっと違う今だっただろうに。
のちに沢山の苦労を経験する羽目になり、あらゆる過去の自分の振る舞いをたくさん思い起こす機会をもった。
そのたび、傲慢いがいにピッタリはまる言葉はないぐらいわたしはとても傲慢だった。
今を大切にする。
こんな当たり前のことに感謝できない人間が何者もなれるわけがない。
それは若さではない、ただ人としてあまりにも至らなかっただけだ。
OL生活はその後、転職を気に辞めた。
新しい仕事は自分が挑戦してみたかった小売り業の仕事。
仕事を辞めるとき
ここはわたしの居場所ではない。
セーセーすると思っていた。
一番最初に仕事を辞めることを伝えたの直近の先輩。
ちょっと気難しい人だった。年齢不詳で
誰もその正確な歳を知る人はいなかった。
すごい古株のおじさん営業マンを君ずけで呼んでるあたりから想像すると、恐らくわたしより2周り歳が離れていたと思われる。
デスクは隣同士だったけど、お昼を一緒に食べたこも一度もなかった。
楽しい会話をした記憶はなかった。
先輩はいつもデスクでお弁当を食べていた。
わたしは同期や1つ上の先輩と食堂で食べていた。
ある時、昼休みが終わってデスクにもどると、
わたしのデスクに猫のパズルが完成された状態で置かれていた。
こわっ
いらん
じゃま
パズルを見たときに脳をかけるワードたち。
パズルの置き土産の主は隣の先輩。
「かわいいから作ってあげたよーー」
「えーーかわいい。ありがとうございます。」
(心の声:ひゃえー超絶いらんけど)
その日の午後からは、壊すわけにもいかない猫ちゃんのパズルをデスクの限界ギリギリまでそのままスライドさせて共存しながら仕事を終えた。
(心の声:やりにくいにもほどがあるぜ)
その猫ちゃんの先輩に業務上どうしても一番に退職の報告をする必要があった。
ただでさえ話にくい先輩に話しにくい内容…
これ以上、先伸ばしにはできない限界までひっぱったところで、お話がありますと先輩に声をかけた。
あの…
思わず少し俯き加減になってしまう。
わたしから言い出す前に
先輩が先に
「辞めるとか?」
「はい。実はそうなんです。
いろいろ教えてくださったのに申し訳ありません。」
頭をとにかく下げるしかなかった。
実は直前で課の移動があったばかり。
この先輩について、わずかひと月の間に転職の運びとなってしまったのだ。
結果的にひと月教えてもらった仕事は無駄になってしまう形になる。
先輩はもしかしたら怒り出すかもしれない…
なにか嫌味の一つでも言われるかもしれない…
内心はドキドキおびえていた。
「よかったね」
「ここじゃなくて自分のやりたいことするんでしょ?」
「わたしはそれがとうとう見つけられなかったから
ずーーーとここにいるだけ」
「うらましいな」
「がんばってね」
はい、泣いちゃう
今までどこか、会社の全部を拒絶していた。
猫ちゃんのパズルもいらんとか思ってたし、50歳近いのに時々
ストリートファイターのチュンリーみたいな髪型なんも、お団子をバンダナでくるんじゃう髪型もダサいと思っちゃってた。
わたしは自分の趣味があう人間だけを認めていた。
髪型ひとつで人の価値を決めちゃうようダサい人間だ。
そっちの方がアラフィフのチュンリーより100倍ダサい。
先輩の優しさと少しの本音と自分のダサさが一気にふりかかり、今まで何を見てきたんだろう…とたんに後悔が押し寄せた。
後悔後にたたず…
猫ちゃんの先輩とは退職まで別の業務をこなすことになり接点は無くなった。
猫ちゃんの先輩を皮切りに退職することを順番に別の先輩や、営業の方、色んな方に伝え回る。
受けいれるカッコだけで付き合ってきた人たちからは応援の言葉がかえってきた。
それだけではなく、職場が心斎橋だったので、もうなかなかこの辺の美味しいお店のランチ食べれないやろ??
今までアテンドありがとうー
退職までたくさんの方が日替わりであちこちランチをに連れていってくれた。
退職した日にはスクロールを何回もしなくちゃ読めないようなメールをくれた先輩。
「社内で自分に対して、文句言う人は沢山知ってるけど、○○ちゃん(私のあだ名)を悪く言う人の話は1度も聞いたことなかったよ。こんな私の下についてくれてありがとう」
また、泣いた。
社交辞令かと思っていたけど
たくさんの人がわざわざ県をまたいでオープンさせたお店に来てくれた。
何人も。
1度きりの来店じゃなく、何度も来てくれた。
自分が大切にされていたのに、その場所をちっとも大切にしてこなかった後悔は20年近くたった今も時々苦しくなる。
心斎橋に来る度、いつもチクッとする。
今は価値観の違う人に出会うとワクワクするし、趣味の違う人の面白みが分かるようになった。
むしろ自分と違う価値観に尊敬の念すら抱く。
アラフィフのチュンリーとか愛しさすら込み上げる。
そのうえで同じ趣味の人に出会うともっと嬉しくなる。
昔よりもっと、ずっと人間が好きになった。
懐かしと後悔につつまれながら手紙をしまいこんだ。
次にまたこの手紙を手にするのはいつだろう。
25歳の自分に返事は書けないから、7年後の49歳の自分へまた、書いてみようかな。
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