バンコクでタクシーに乗ったら

その日、私は寝坊した。
待ちに待った帰国日なのに。夜の日本行きの飛行機に乗るため、少し仮眠をするつもりが…。
どうして私は大切な日に寝坊をしてしまうのだろう。いや、日常から寝坊の常習犯なわけで、大切な日だからとて変われると思うのが図々しい。

パスポート、エアチケット、心もとない額しか入ってないと思われるペラっペラの財布をショルダーバッグに入れ、化粧道具一式と洗濯して取り込んだままになっていた下着と服をそのままトートバッグに突っ込んだ。

バンコクの安アパートを飛び出た時には、すでにフライト時間まで一時間ちょっと。
大通りまで走り、タクシーを止め、空港まで急いでくださいと告げ、日本で待っているだろう彼に電話をした。

「いろいろあって…、飛行機に乗れないかも」
そう告げただけで、彼は状況を察したようだった。

例えば、本当は仕事をさぼっていたのに「仕事してたよ」と言うとき、こっそり無駄遣いをしてしまったとき、まあ、だいたいはくだらないことなんだけど、彼はすぐその嘘にもならない嘘を見破った。

あ、寝坊したことバレてるな。
そう確信したけど、寝坊だとわかった上で「どう?乗れそう?大丈夫?」と言ってくれるところが好きだ。やっぱり優しい。
いや、ほのぼのしている場合じゃない。

ドンムアン空港までは、いつもなら30分ほど。
間に合う。ギリ、間に合う。
ほら、もう空港を示す看板も出てきた。
大丈夫なはずだと自分に言い聞かせていた、そのとき。タクシーが止まった。

え?なんで?

「渋滞だね」

運転手がめんどくさそうにつぶやいた。
いやいやいや、この時間にありえない。でも、現実だ。タクシーは進んでるのか進んでいないのかわからないくらいのスピードになっていた。
そして、10分。進まない。

もうダメだ。歩いた方が、いくらか速いんじゃないか。そう思ったら、いてもたってもいられない。
「私、降ります。走ります」


「ダメだ。タクシーの方が速い。出発時間の30分前につけば、なんとかなるはずだから、降りない方がいい」
何言ってんの! 歩くより遅いようなスピードで走ってるくせに。
「降ります」
「降りるな」
「降ります」
「降りるな」

「この感じの渋滞なら、もう少しで抜けられるはずだ。絶対間に合う。こんなところで降りて走ったら絶対間に合わない。信じて!」
初対面の逆に、ここまで自信たっぷりに言うなんて。“信じて”なんて、青春ドラマのようだ。いや、またほのぼのしてしまった。

だけど、信じることにした。間に合わなかったら、そのまま乗って帰ればいいんだ。
覚悟を決めた。とはいえ、進まないタクシーにソワソワする。
間に合う?間に合わない?
間に合う?間に合わない?

そのとき、急にタクシーのスピードが上がった。
「ほら、渋滞抜けたよ!」
ほんとだ。こんなことある?よかった!
“信じて”よかった。

とはいえ、まだギリギリ。
空港に着いたのは、離陸35分前。
「本当にありがとう!」
タクシー代を払い、一言お礼を告げて飛び降りる。

「もし、間に合わなければ、戻っておいで!離陸時間まで待ってるから!」

窓を開けて、こちらに向かって運転手が叫んでいる。
「ありがとう!」私も叫ぶ。

それから数十分後、私は空の上にいた。
あの運転手さんは、待ってくれていたのだろうか。
いつか伝えたい。
“ありがとう。乗れたよ”って。

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