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【感想文】二人の友/森鴎外

『僕チャーリー』

本書『二人の友』には人称表記における問題点があり、それを解決する為に必要な大御所芸人は、チャーリー浜である。

1ミリたりとも意味が分からないと思われる為、以下に説明する。

■人称表記上の問題点:
まず最初に、小説における人称の種別について述べておくと、表記の形式は一人称小説(漱石の『猫』)、三人称小説(ユゴーの『レ・ミゼラブル』)が主流だが、二人称小説も少なからず存在する。例えば、ビュトールの『心変わり』、後藤明生『挟み撃ち』が二人称小説に該当する。ここで「二人称小説」とは、語り手(I)を起点として相手(You)に働きかけて物語を進めていく手法であり、これをさらに細分化すると「語り手(I)が相手(You)に一方的に呼びかける形式(書簡体など)」、「語り手(I)が相手(You)を三人称(He)的に語る形式」に分類できるのである。
次に問題点の説明だが、本書『二人の友』の登場人物「F」の人称表記は <F君>と<君(きみ)> の二種類が混在している(全読者がお気づきであろう)。よって、本書は私が冒頭で述べたどの人称小説にも該当しない。なぜというに、語り手は<私>一人にも関わらず、<F君> <君> という2つの視点が存在するからであり、したがって、本書は一人称でも二人称でもない「一人称+二人称小説」という不自然な形式なのである(※ここが問題点※)。

■一人称+二人称の構造:
チャーリー浜の持ちネタに『キミたちがいて、ボクがいる』というギャグがある。
『キミたちがいて』の<キミたち>とは、「舞台上の他の演者(内場勝則、未知やすえ等)」だけでなく「観覧客」の二者を表し、『ボクがいる』の<ボク>は話者のチャーリー自身を指す。そのため、舞台上のチャーリーの目には、主体としての<キミたち>と客体としての<キミたち>が映っており、それぞれに対する発言だと仮定すればこれ即ち、一人称+二人称の形式である。結果、チャーリーのギャグは、新喜劇という便宜において内場と未知を茶化すだけでなく、同時に観客も茶化すという舞台/客席の垣根を超えたメタ構造、その意外性により笑いが生じるという理屈によるものである。
以上を踏まえると、鴎外はチャーリーの芝居にインスピレーションを受けて「一人称+二人称」というメタ構造を小説に応用したと考えて差し支えは、一切無い。では、なぜ鴎外はその様な手法をとったのか。

■鴎外の意図:
もし仮に、本書を<F君>という表記に統一して一人称小説とした場合、単なる回想録に成り果てる。また、友情がテーマにも関わらず<私>と<F君>の間に距離感が生まれてしまう(三人称も同様)。次に、表記を<君>に統一して二人称小説にした場合、リアリティは多少あるにせよ、文脈が不明瞭、かつナルシスティックの印象が強調される為、読者が白けてしまうというデメリットがある。以上の懸念を見据えた上で、鴎外は「一人称+二人称小説」を採用することで、人称表記における欠点の相互補完(※1)を狙ったのである。
※1・・・<F君>表記による外的状況の整理。<君>表記による内的心情の表現。

といったことを考えながら、この内容を知人のCharlieに話したところ『I’m gonna shove my fist far up your mother fuckin' ass and crush your fuckin' back teeth, goddamn you! (=ケツの穴から手ェ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろか,このダボが!)』と怒られた。

以上

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