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権左衛門伝

権左衛門は右頬に大きな痣があった。それは天保五年の大火事の時にできた。木材に挟まれて身動きできない七歳の孤児を助けたのがその後育ての親となった木偶坊の勘助。普段は橋の袂でぼうっとしている川原こじきのひとりであるが、何を隠そう元は伊賀の抜け忍とも言われ、鎖鎌、鉤縄のつかいに長け、権左衛門も見よう見まねで十五になる頃には昼は川原の大道芸、夜は勘助の貰い受けてきた仕置仕事をこなすまでになっていた。


師走の夜のことであった。いつもの辻にはここのところ目にしなかった蕎麦の屋台が立っていた。角を曲がった辺りからいつもはしない柚子の香りがして食欲をそそった。仕事がある日は朝から喉に何も通らない。権左衛門が歩み寄ると屋台の主人は黙って蕎麦を湯がきはじめた。出てきた蕎麦は一面に薄切りにされた柚子が乗っていた。無我夢中でかきこんで、一息つくと、屋台の脇に人影が見えた。身なりは吉田鮫ヶ橋の宵闇に出没する夜鷹のようであるが頭巾の下に見える顔は薄化粧をしているが凛々しく、気品すらあった。地面にかがみこみ蕎麦をすすっている。白いものが柚子蕎麦のうえにも舞いはじめた。


刺されても仕事中は痛みを感じないものだ。気つけに飲んだ焼酎も手伝って、権左衛門はおのれが血まみれであることにも気づいてないようである。よろよろと裏の蔵の影から真っ暗な裏道に出る。新月であるから、星あかりのみの丑三つ時、牡丹雪が肩に冷たい。大川の川辺まで辿り着けば、乗り捨てられた渡し舟をみつけて、もぐりこむ。

 暁の鐘が鳴ります浅草寺 
 名残惜しいを、通り越し 
 恨めしいぞえ、むごいぞえ 
 鐘が鳴らずば、夜は明けまいに 

三味線に女の歌声が近づいてくる。朦朧とした眼に、川面を漂う無数の光が見えたような見えないような。意識が遠のいていく。

菩薩様に抱かれて権左衛門は浄土の蓮池を漂っていく。芳香とも腐臭ともわからぬ幽玄の匂いに包まれて、赤子が初めて目にするような恒常の淡い光が閉ざされた瞼を照らしていた。母とも妻とも思える大いなる抱擁の安らぎの中、権左衛門は猫になる。生きているのか死んでいるのかわからない箱の中の猫。

雪が涙の流れる頰で溶けている。三味線の音が小船のへりから聴こえる。おしろいの匂いが微かに鼻についた。

散るは浮き
散らぬは沈む紅葉葉の
影は高雄か山川の
水の流れに月の影

弦の最後のひとふしがびびんと朝焼け前の雪の川面に響いた。


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