この距離がわたしと世の中の限界 (映画『勝手にふるえてろ』)

最近の関心ごとに、”社会と自分との距離感”というのがある。

なんか孤独な感じがする。関係性が築けていない気がする。話したいけど、口にできない、相手がどういうつもりかわからない、共感しあいたいのに、どうやっても理解しえない。誰かとのつながりを渇望しているのに、つながると勇気がもてない、疲弊してしまう。

自分自身、そして周りを見ていて感じる生きづらさというのは、
どうもこのあたりから漂っているような気がしている。

映画を観て


さて、以下は映画から私が受け取ったもの。
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作品の中で、主人公の江藤さんは驚くほど、誰にでも自分の話をテンション高くイエーっと話しかける。

自分がどんなに初恋の人が好きか、嬉しかったこと悲しかったこと、どんな価値観をもっているか、強烈に愛する”絶滅した動物たちの話”。

とてつもなくプライベートな話をそのへんの人に。
ダダ漏れといってもいいくらいに。

だけど、江藤さん、ふとした瞬間に ”私と世の中”の距離感に愕然とする。

すべてが幻だった?
いや、そんなはずはない。確かにここに残るあたたかな感覚。
すべてをなかったことにはできない。
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生きづらさの正体は?


社会との断絶感、といったらいいのだろうか。

なんともいいがたいこの感覚は
自分だけの感覚ではないのかもしれないと映画を見て感じた。

そんなことを考えていたとき、目に入った記事がある。

「日本人は、基本的に『世間』で生きているので『世間』の人たちをとても大事にしますが、自分と関係ない『社会』に生きる人たちは無視して平気なんですね。それは冷たいとかいじわるとかではなく、生きる世界が違うと思っているからです」
THE BIG ISSUE VOL.361 特集 生きやすくなる方法
(P.9鴻上尚史さん)
エレベーターは知らない人が偶然乗り合わせる「社会」だ。欧米では、エレベーター内で誰もが黙礼や会釈、会話を交わすが、日本では対象的にみんな黙って目を合わせず階段表示を見つめている。
……
日本人は「社会」の人たちとのコミュニケーションがとても苦手なのだ。
(P.9本文より)

つまり、日本には、自分の周りを取り囲む世間と、直接的なつながりを持たない社会とがある。

「……欧米社会で人々がふつうに『社会話』をする動機ですね。つまり、道端で泣いている人がいたら『元気出せよ』と声をかけてすれ違っていくような。自分の中だけでは抱えきれないものを『社会』の人とシェアしようというものです」(P.11)

鴻上さんは世間話だけでなく、「社会」の人と社会話をしようと呼びかけます。

「それでずいぶん楽になりますからね。初めて行ったレストランで『おいしかったです』と伝えるのも、社会と楽につながっていく道の第一歩だと思います。『社会』に生きることに慣れていない人でも、練習したらなんとかなります。本当に。」


社会とつながる方法


ああ、そうかあ。
さらっと話しかけてみれば良いんだ。

もし私が社会の中で生きる上でもっと気軽さを手にしたい、と思ったら
その方法は別け隔てをしないこと、かもしれない。

友人で、”おばさん最強説”をとなえてる人がいるのだけど
知り合いでもないのに隣合った人に話しかけるのは
確かにおばさん的なのかもしれないし
ヒッチハイカーやバックパッカーのそれ、と似ているかもしれない。

自分の父母をみていても、
おじさんよりおばさんのがずっと生きやすそうだ、なんて思う。
(たまにおばさん的おじさんもいるけれど)

「同じ地域だから…」「同じ学校だから…」
利害関係だったり影響し合う関係性を超えて
さらっと一期一会をも楽しめるって人としてなんだかとても豊かだ。

安心できる場をつくっていくこと


ひとつの場所(世間)がだめでも、他の場所がある、という安心感を得ていくこと。

今は世界中とつながることができるから。
学校ではうまく行かなかったけれど他のコミュニティがあったからなんとかなった、という話も聞いたりする。

小さなコミュニティで挫折感を味わうことも、傷くこともあるけれど、

大丈夫ってこと。

小さなコミュニティで自分を押し殺して生きなくてもいい
自分をクリアにして、それが安心して出せる場所を小さくても周りに作っていくことが気楽に生きていく鍵なのでは〜

”自分用の社会を作る” という内容で
とても共感した記事があったのでのせておきますhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/54651

安富さんがいう "小さな場を作り、よりよい場にしよう"
これが今私のできることなのかもしれない。


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