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数をこなすことに意味を持たせる

ゆとり教育がどうのこうのというあたりから、大量に問題を解かせるという手法から距離を置くようになってそれなりの年月が経過したのですが、昨今の情勢を見るに「数をこなす」ことの在り方、いや、捉え方に課題があるのかなあと思うようになってきました。

というのは、昭和生まれの受験戦争時代を生きてきた世代は、ほぼ例外なくドリルや問題集を山のように出されて、それをどうにか消化するというのが学習の主軸にありました。やってしまえばそれまでのハナシで済んでいた環境もあったからか、解答丸写しで出そうが、親や兄姉がやろうが、とにかく「お体裁」がなっていれば課題としては成立してしまっていたし、実際にそれで困り果てたという人の話は(本人が洞ヶ峠を決め込んでいたり墓場まで持っていくというのも含めて)まず聞いたことがありません。

それがナンセンスだったのかどうかは知りませんが、ともあれ「数をこなす」というのは演習としてはまかりならぬという風潮となって、問題がこれでもかと出てくるような問題集は珍しいものとなっていきました。

ところが、単に数をこなすということだけが目的ではなく、その演習を通じてミスのあぶり出しや行き詰まるところを見つけ出したり、修正のしかたや実践を演習の過程で体得することがねらいとしたら、ある程度の数をこなしてみないと、その体得の機会を得るのが難しいことに気がつきます。

そして、そのミスは単なるやり直しというだけでなく、演習途上でミスに気づいたときにスムーズに処理するという経験と、そのミスに自ら早く気づくことができるという可能性も広げることができる好機ともなります。

演習は好ましい結果を手に入れるための“練習の場”と考えれば、ミスをするのも練習の途上であっていい、いや、むしろあることが望ましいということにつながりますし、それでもミスが出てこないのであれば「そなたはじゅうぶんつよい!」という証左となる手応えを得ることができることでしょう。

宿題だけじゃなく、小テストや定期テスト、模試だって同様、単に手をつけるだけでなく、どのような課題を載せてそこに臨むか、取り組むかでその後の積み上げが大きく変わっていきます。演習に意味をしっかり持たせて取り組めば、その分だけ得られる経験値も大きくなることは相違ないので、同じやるならちょっと欲張って目標設定してみるのもいいと思います。「何点取る」「偏差値いくつを目指す」だけが目標ではありません。自分をどのように成長させたいかも目標設定の重要テーマなのです。

つまるところ、演習と作業は取り組み方で大きくちがうものになるんやで、というオハナシでした。
それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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