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うつわに寄りかかる

つかれたら、悲しくなったら、寄りかかりたくなるでしょう。元気なら、愉快なときなら、寄りかかってもらえてうれしいと思うでしょう。


「静かに寄りかかる」

30年前、20年前、10年前、5年前と、うつわの存在が良い方向に変わってきている。土鍋の扱かわれかたもどんどん明るい世界に動いている。

小売についてではない。なんとなく、うつわがスポットを浴びてがんばっているなと。一時期のゴールデンエポックには、展覧会をひらけば雑誌スタイリストがギャラリーに並んでくれて「ここからここまでのスタイリングぜんぶください」みたいな大入袋があったから、現在、不振に悩むギャラリーや店ももちろんある。

震災で「われるうつわ」は不振に陥ったが、時代の流れで増えた自宅食がスポット役をかったのだろうか。ネットで料理を披露する機会が増えたことでそのスポットを強めた感もあるが、それよりも自分らしい強弱をつける料理の仕方で美しい音を奏でている人たちが、静かにうつわに寄りかかり、理解を示してくれていることを実感している。 今後は地道なコッチョリーノの活動に光があたりますように。

うつわに寄りかかってくれる人が
増えてくれてうれしい


「マンマに寄りかかる」

翻って制作者であるわたしは、制作数量に限界があるので、残念ながら、暮らしがうるおうことはない。けれども、どうしてつづけるのか。

なにやっているんだかとも思うけれど、あっというまにイマココにいる。ただただ30数年間つくりつづけた。スランプや副業に専念せざるを得ない状況などもふくめて休息もいっぱいとったけれどやめていない。それだけ。


「旅する土鍋」は
寄りかかりあうプロジェクト

うつわのつくり手も、旅先でイタリアのマンマ(パパでももちろん良い)のように腕をめくって料理をつくってくれる人に寄りかかってみる。土鍋がたくましく見えたし、シンプルなものがなんでもおいしそうに見えた。

これだ、これなのだ。

「旅する土鍋ジャポーネ」を東京と横浜で行なったが、ここにも「寄りかかりあえた」という実感があってうれしかった。




「進化・退化に寄りかかる」

「表現する」とは、寄りかかりながら
「進化」「退化」することだと思う

「表現する」とは、一過性のカタチやコトバだけではないと思っている。吹く「風」かもしれないし、にじみ出てくるような「さび」かもしれないし、ふりかえるとついている「足あと」かもしれない。

「進化」や「退化」は突然に起こることはないのだから、めざましい求心力よりも、持久力や忍耐力、ときに放心力(そんなコトバない)が必要だ。わたしのうつわづくりは戦略的でないし、きっとこれからもムリだけど、どんな声も聴くし、聴いても揺れることない鈍感力が強みなのかもしれない、ぜんぶの声がうれしいのだ。

週末に行った「土鍋ワークショップ」ではたくさんの声をいただいた。むつかしい料理でなく、シンプルだけど丁寧な時間が共有できたことがうれしい。もっと声が聴きたいし、もっと寄りかかりあえるうつわを、さらには寄りかかえあえる文化をつくりたいと思っている。



あとがきコッチョリーノ 

▶︎週末に開催した「土鍋ワークショップ」が心底たのしかった。参加者からたくさんのエキサイティングな感想いただき「表現」という価値観がググッと進化したわけで、早くレポートを書きたいのに。▶︎そうそう有意義だったミナペルホネンの皆川明と糸井重里のトークショーの感想も途中なのに。▶︎件の窯の修理が終わり、避難させた作品や重い道具を運んだり、電気のプログラムに悩んだりしています。▶︎それよりも工房が寒すぎてワークマンに防寒作業着を調達にいきたい今日この頃です。(コッチョリーノ地球のかけら)


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