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依存の話。ふと、書きたくなったので。

小さい頃、「だぁ!だぁ!だぁ!」というアニメが好きだった。原作は少女漫画。ある日両親が仕事で海外に行ってしまい(ご両親は宇宙飛行士)、中学2年生の主人公の女の子は母親の知り合いの家に住むことになる。そこに住んでいたのは、同い年の男の子。そしてなんと、彼の父親もインドへ修行に出てしまい、2人きりで暮らすことに…!

と、ここまでは今では割とよくある少女漫画の展開(宇宙飛行士やインドの修行はあまりないけど)のように思える。でも、だぁ!だぁ!だぁ!は、ここにオット星という違う星からやってきた赤ちゃんと、そのベビーシッターが突如やってくる。彼らの存在、そしてふたりが同居していることは他の人にバレてはいけないので、主人公の女の子と同居人の男の子は、その赤ちゃんのパパとママになりつつ、同時に運命共同体になって秘密を守り抜きながら、楽しくわちゃわちゃラブが芽生えながら暮らしていく物語。(雑な説明になってしまったけれど、とても面白い作品です。)

この同居人の男の子、西園寺 彷徨(さいおんじ かなた)くんが、わたしは当時、小学生くらいだったと思うけど、とても好きで、憧れていた。主人公の女の子、光月 未夢(こうづき みゆ)ちゃんが、その頃はあまりはっきりと自覚はなかったけれど、今思えば羨ましかった。

相手がかっこいい男の子なことは前提として正直あるとしても、「運命共同体」そして「絶対の味方」、そんな存在、男の子がそばにいるみたいで、すごく羨ましかったのだ。

絶対的な味方なんて、相手も人である以上、いないと何処かで思っている。それは、裏切りとか、そういう形でなくとも、何処かで、なんだか人は離れていくような気がするのだ。

その一方で、「この人は絶対的な味方だ」と思える人と出会いたい、と思っている自分もいる。

だけど、「絶対的な存在」として依存することは、その人がいなくなってしまったら生命(心的な意味でも)の危機くらい、大きなダメージになってしまうから、そんな存在を作ることに無意識の恐怖もある。依存的になっている自分を見つけると、とても抵抗を感じるし、それはだめだ、と思う自分が同時に現れる。


だぁ!だぁ!だぁ!の未夢ちゃんは、彷徨くんに依存している訳ではない。ただふたりで「協力」している。互いに、助け合って、時に喧嘩して、未知のことに、日常生活や育児に、そして秘密を守るという共通のミッションに挑んでいる。

未夢ちゃんの周りには、友達もいる。彷徨くん以外にも頼れる人はいるし、ベビーシッターのわんにゃー(というキャラクター)もいるし、それは彷徨くんも同じだ。


大人になって、「複数に依存するということが自立」、そう知った。わたしは、どこかで色々なことを、生きるという立ち回りを、ひとりでやらなければいけないと思い込んでいたのかもしれない。

今、わたしはいろんな人に頼っている。複数の依存先を持って、困った時は助けを求めて、安心の世界で、前よりも生きれているなあと思う。

自分が内側で求めるものを、同時に「それを求めていけない」と思うのは、アクセルとブレーキを同時に踏むようなものだ。
もう、今はひとりへの依存で生きていく世界ではなく、たくさんの人のなかで生きる世界にいる。まだ見ぬパートナーという存在も、そのひとりだ。

失うことは、怖い。親密になればなるほど。
小さい頃に「失う」痛みがたくさんあった。子どもなりに、痛みを回避するために、色々と、してきたのだ。それが今大人になってからも、残っているらしい。

運命共同体を求める自分の心も、ある。ただあるがままに、それがあることを受け入れる。それをいけない、危うい、怖いと思っていることも、ただ受け入れる。

離れていく関係もあるかもしれないけれど、わたしは小さい頃の選択肢よりもたくさんの選択肢を、今持っている。話せる人もいる。自分に寄り添うこともできる。ただ痛みを受ける存在じゃない。随分、たくましくもなっている。

まだ、道半ば。
ただ一緒にいることが幸せな人がいい。
隣りにいるのは、自分が生き生き、のびのびいられているなあと感じる人がいい。




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