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BOOK AND BED TOKYO

逃避欲。多くの人が日頃から潜在的に持っているのではないか。それこそ、3大欲求プラス1に数えられるくらいに。でも、そのプラス1は、ほかの三大欲求よりも、満たすのが相当にむずかしい…本質的には、という意味でだけれど。

少なくとも、私の経験上、この欲が満たされたと体感することは稀だ。留学や海外旅行のように、全く縁のない土地へ行く。自分のことを知るひとのいない場所へ行く。そういうのが手っ取り早い手段だろう…安直だが、私も経験があるので分かる。

だが、そんなことをしなくても、満たされる空間というのが存在する。そこにフィットするメンタル状況を持ち合わせていることも必要かもしれないが…とにかく、book and bed tokyoは、ふらりと逃避欲を満たすのにおすすめだ。

book and bed tokyo
コンセプトは「泊まれる本屋」。

神戸に引っ越してきて3ヶ月ほどが経つ頃。まだまだ関西初心者の私は、お気に入りのコーヒースタンドをやっと見つけ、そこの店員から小耳に挟んでそのホテルの存在を知った。

本店は池袋。全国に6店舗あるそうだ。大阪で研修の機会があり、私はここぞと、心斎橋店を利用することにしたのだ。大きな声では言えないが、研修のついでではなく、研修の方こそがついでだ。

静寂。心地よい音楽。本のページをめくる音。ただ、それだけ。

そこにあるのは、たくさんの洋書、雑誌、本、漫画。

ピラミッドのように上に向かって段差があって、そこに座ったり、寝転んだり、好きな態勢を取って本を手に取ることができる。宿泊客は、思い思いに本を読み、リラックスしている。会話はない。

上からは漫画のコピー紙が吊り下げられ、無機質みのある空間をアーティスティックに演出している。

壁面には、ジャンルごとにさまざまな本が並ぶ…証明はあたたかいオレンジ。BGMはゆったりとしたオルタナティブ系音楽だ。

私はぼんやりと本たちを見て回って、何の気なしに数冊引き抜いた。マッシュルームのスープやらシェパードパイが載っているレシピ本。ライアンマッギンレーの写真集。ポートレート集…若き日のイヴ・サンローランが載っていてとても素敵だ…それからカリフォルニアのツアーガイドブックなどなど。

時計を見ていないが、おそらく22時くらいだ。まだまだ夜はこれからなのだと、心が弾む。まあ明日もまた研修なのだが、その事実が、あたかも違う世界線の瑣末な事柄のように思えるのだから不思議だ。

周りの世界に溢れる未知に、無邪気に目を輝かせる5歳児。自分がそうなっていることの可笑しさとたのしさを噛み締めた。

寝る場所は、カプセルホテル仕様だ。
パキッとした真っ白なスーツ。狭いコンクリの、1人用の個室。黒い二重の遮光カーテン…私はその中に篭ってからは、カポーティの「夜」を読みはじめた。スマホの充電をしているが、SNSはしない。スマホを見もしない。その必要はなかったからだ。

無機質なシャワールームで無心でシャワーを浴びて、カポーティを読み終えて、おそらく12時を越えたのだろう、共有スペースの照明と音楽がフェードアウトした頃、私も眠りに落ちていった。

AM7。
宿泊者限定で利用できるカフェスペースに、朝一で行った。ブラックコーヒーさながらの色をしたカフェラテが染み渡る。インスタ映えの見た目だが、味はオーソドックスな、マイルドで美味しいカフェラテだ。それからアボカドのブラックサンドも、チーズとアボカドだから当然に美味しい。炭の着色…だが炭の味はしない。

いつも朝ご飯をたくさん食べる私に足りる量ではないんだけれど、空腹が十分満たされた。 空間や満足感が補填したんだと思う。

私はコンクリートの部屋に屈折して差し込む朝の日差しを、ぼんやりと間接的に体感していた。すこしSNSをチェックして、それからまたぼんやりと外を眺める。コンクリートのビルに囲まれているので、空は全然見えない…でもそれが落ち着くのだ。これでだだっ広い青空なんかがビルの窓から見えたものなら、なんだか心もとない気分になったに違いない。
そしてやっぱり音楽って偉大だ。大して耳に残らないようなBGMだが、それがいいのだ。

この居心地の良さはなんだろう。昨日の夜から考え続けた。だがこの時にようやく分かった。この空間には無関心が蔓延している。人間同士は互いに、完全に無関心といっても過言ではない。ただそこに、ひとりとして在る。暇そうにスマホをいじる店員。同じくコーヒーを飲みながらスマホを見ている女性客。そして私。三人が同じ空間に、沈黙の中で存在している。その距離感が、不思議なほどに心を満たしている。

私は30分ほどカフェでぼんやりとしてから、私にしてはかなり大きめの荷物を背負って(研修中なので渋々だ)、ホテルを後にした。その時のことだ。つまり、道路に脚を踏み出したときのことだ。私はおどろいた。

朝!そこにあるのは、ただただ、「朝」だった。若干の夜更かしをした後の私を、ひたすらに冴え渡った朝が出迎えていた。あまりに眩しいので、私は息を飲んだ。朝という概念を、強烈に、強制的に、認識させられた感じだ。いうなればカポーティの「夜」とは完全に対義の概念がそこにはあった。

すぐそこの道路に、痛んだ茶髪の女が色褪せたライトグレーのスウェット姿で可燃ゴミを出しに出てきていた。工事現場の男たちは、はやくもコンビニの外にたむろして、おにぎりを食べ、ボスのコーヒーを飲んでいる。多数の店はまだシャッターを下ろしたままだが、ゆるやかに生活の始まる音がする。動き出そうとしている気配を感じる。ああこの世界に生きているのか、と、立ち止まって辺りを見渡した。
満ち足りた気持ち、それから底無しの諦め。でもこの2つは、じつは紙一重なのかもしれない。

新入社員として入社し、現場で働き始め、今4カ月ほどが経つ。20代はいろんな経験をしようと、とりあえず会社員になってみた。

結論をいうと、失敗した。
普段抱えるストレス負荷が凄まじすぎるのだ。それも、噂や陰口の蔓延する、面倒な人間関係のこと。それだけでひたすらに不快指数が高いのに、気を遣いっぱなし、下手に出っぱなしの環境だ。入社前に思っていたことと違う仕事内容に、モチベーションが下がる一方、自身の無能さに嫌になることもある。もっとしたいことがある、もっと楽しめることがある、私のしたい生き方は少なくともこれじゃない、という気持ちが拭えず、取り敢えず疲弊しきっている。

そんなことたちも、瑣末なことだと思いたいのだ。
瑣末なことじゃないんだけれど。でもときたま孤独になりたい、なって安心をしたい、私は昔からずっとそういう人間だった。今でもそうだ。
孤独でないと、自由でないと、感じられないものが多過ぎると思うからだ。でもその自分自身の内的な要請すら、最近のストレスで手一杯で、忘れかけてしまっていた。普段の社会人生活の中で、掌の隙間からすり抜けていくように、なにかを「見落とし」続けている…その感覚だけが、後ろ髪にひかれるような心地で、若干認知できるだけ。私はひたすらにそれがおそろしくて、焦りを覚える。

今回このホテルに一泊したことでその変化に気づき、私は肝が冷えた。こうして我慢していくうちに、我慢に慣れて…耳触りの良い言い方をすれば「適応して」…孤独を恐れ、あるいは避け、わざわざ逃避をすることをやめざるを得なくなってゆくのかと。ストレス社会を懸命に生き抜くという、あたかも真っ当と世間に思われるような姿に自分を当てはめてゆくのかと。その中で、逃避欲を潜在的に持ちつつも、決して満たされることのない幻の第四欲求として、逆説的に持ち続けることになるのかと。それが物分かりの良い大人になることだとしたら、私はそうなることを決して望まない。

冷たく、あたたかい、このホテルのなかで、私はひとりでいられた。ひとりで、未知を恐れることなく、むしろ未知にわくわくした。ああ私は本来こういうものを好むのだと、こういう世界を知りたくてこういう時間を愛するのだと、想いを馳せることができた。遠くのカリフォルニアのコバルトブルーの空を見ていたら、なぜか泣けてきた。あんまりに美しくて、そこへ行きたくて、でもせめてこれが見れて良かったと思った。そういう経験が、逃避するということ、逃避欲を満たすということに繋がっていると感じる。

逃避する。逃避するためにどこかへ赴く。
それは弱さだろうか。現実の生活とやらに嫌になって逃避した先に残るのは、虚しさだろうか。単なる無責任な逃げに過ぎないのだろうか。側から見たらそうなのかもしれない。

だがそこで出会う自分は、ほんとうだ。そこで出会う景色もほんとうだ。自分の求める自分や自分の本音には、逃避したその先でこそ、向き合うことができるように思うのだ。

とはいえ、逃避した先で、何かしらの正解を見つけることが出来るわけではない。逃げた現実をどうこうする術が見つかるわけでもない。(事実、会社員生活は今日も続く…。)

そこで見つけるものは、たとえばパキッとしたシーツの白の穢れなさや、洋書のレシピ本で見かける美味しそうなミンスパイの作り方や、朝陽のなかにただようカフェラテのほろ苦い香りなどなどーに、すぎない。

だがそれらは、私にとって、日々見つけようともがく「答え」よりもずっと、価値のあるものたちだ。
それらの存在そのものに目がいく…もっと正確にいえば、この世界にそれらが存在していることに、目がいく。それがいかに尊いことかを、知ることができるからだ。

また大阪で研修がある際には、お邪魔します。

http://www.bookandbedtokyo.com/

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