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性自認・性嗜好のカミングアウトは必要なのか

先日宇多田ヒカルが、自身のInstagramにて、「ノンバイナリー」であることを公表した。
ノンバイナリーって何?と思われた方も多いと思う。
恥ずかしながら私も、今回の発言を聞くまでその言葉を知らなかった。

ノンバイナリーとは、性自認が男性でも女性でもない(或いはどちらでもありうる)という性質のこと。近年よく耳にするようになった、「ジェンダーレス」という風潮と親和性が高い。

彼女のカミングアウトについては賛否両論のようだけれど、私は、この公表は意味のあることだと思う。
というのも、6月はLGBTの権利向上を促すプライド月間。著名人が自身の性自認や性嗜好について公表することは、まだジェンダー観のアップデートが遅れている日本においてはインパクトがあるだろうし、認知にもつながる。
実際、日本では「ノンバイナリー」をカミングアウトしたのは宇多田ヒカルが初めてということで、その単語がこうして社会的に明るみに出たのは初めてといってもいいだろう。

この、近年の「アブノーマル(普通ではない)のカミングアウト」の風潮について、あなたはどう思うだろうか…。私は元々、「カミングアウトをわざわざしなくてもいいのでは?」と思う派であった。

だが、それが180度変わったのが、直近では昨年末にトランスジェンダーであることをカミングアウトした、カナダ出身のハリウッド俳優、エリオット・ペイジの件だ。彼はTIMEの表紙を飾って話題になった。
名前もエレン・ペイジからエリオット・ペイジに変え、乳房切除をしたエリオットは、「インセプション」や「X―MEN」シリーズなどの映画作品ではロングヘアの美女として出演してきた、キャリアの長いハリウッド俳優だ。
私も、両作が好きだっただけに、外見上の華麗な性転換に衝撃を受け、また初めて明らかにされた年少期からの苦悩にはもっと衝撃を受けた。

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TIME誌の見出しには、"I'm fully who I am"のキャッチコピーと、飾り気なく佇むエリオット・ペイジ。

「完全にありのままの自分」。
この表紙からは、自分として生きるということや自分のアイデンティティに対する、私が抱いたことのない種の力強い全肯定と、真摯な覚悟を感じた。
開放感と自由に満ちた風が吹き抜けるような、心地よささえも感じた。

エリオット・ペイジは、Apple TV+にて公開中の、オプラ・ウィンフリーのトークショー「The Oprah Conversation」に出演し、そのカミングアウトの全貌を語っている。こちらは非常に、LGBTQ+ではない人々にとっては特に、見て学ぶことの多いものだと思う。

https://tv.apple.com/jp/episode/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%B7/umc.cmc.jpjpaem557ibbg30672gdf83?showId=umc.cmc.49yt85r7ow6904u0177r694qy

そこでは、カミングアウトが、「自分を自由にする」という意味を持っていることが明らかにされる。

その上で、カミングアウトすることにより、トランスジェンダーの活動家としてより積極的に行動していけるという部分も大きいだろう。実際、エリオットは、アメリカで若いトランスジェンダーに必要な医療が限定されていたりする「反トランス法案」への批判を勢力的に声掛けしている。

私はこの動画を見て、TIMEを読んで、カミングアウトへの考え方が180度変わった。

元々、性自認、性嗜好について多数派に属する私は、カミングアウトの風潮に違和感があった。
なぜ、自分が女であるとか男であるということや、恋愛対象、性対象をおおっぴらに告白するのだろうか、と。
そんなことは気にしないし、どうであってもいいじゃないか、個人の自由なのだから、と。
カミングアウトすることで好奇の目に晒される側面もあるだろう。それに、もっと言えば、カミングアウトという行為が、その性質を(さらに)アブノーマルにしているのでは、とすら思っていた。

恐ろしいことに、私はそう思う自分のことを、先進的で次世代のジェンダー観を持っている、と自認していた。

だがそもそも、私がカミングアウトに違和感を持つのは、まぎれもなく、自分がカミングアウトをしなくて済んでいるからに過ぎない。
大多数の性自認や性嗜好を「普通」「当たり前」とする社会で、私が元々その範疇にあるからに過ぎない。

日常生活で違和感を持つことなく済んできた。
私は無自覚的に「マジョリティ」の特権を持ち、なんの不便もフラストレーションもなくただ恩恵に与って生きている。

例えば、合コンで自己紹介をするときに「私はシス女性のヘテロセクシャルです、よろしく」なんてわざわざ言った試しがない。気になる男性とデートをするときに、「脈ありですか?」という代わりに「あなたもヘテロもしくはバイですか」なんて性的嗜好を確認したりはしない。女友達と恋バナをするときに、「彼氏か彼女、作らないの?」なんて風には聞かない。あるいはアセクシャルという、恋愛感情と性的嗜好が結びつかない人もいることを考慮して、「ところできみって、恋愛したい派だっけ?」みたいな、そもそも論から恋バナを始めた試しなどない。

自分の価値観を普通とされることが普通になってしまっているから、相手もそうだという前提の元にコミュニケーションは進む。だが、LGBTQ+の人からすれば、その前提そのものが苦痛であり、違和感であり、フラストレーションであるのかもしれない。

そのそもカミングアウトは必要か?ではなく、今、私たちが生きているこの社会は、残念ながらまだカミングアウトを必要とさせる段階なのだ、ということだ。
そうしないと、多数派が無意識的に掲げる「ノーマル」の土壌は、変質できないからだ。

理解をする、学ぶ、ということがいかに大切か、今回わかった。

不勉強故の共感性に欠ける発言や、無意識的に傷つけてしまうような反応、カミングアウトに対する批判などに対して、何度も反省と議論の場を設けていけたらいい。私たちの世代で「普通」を徹底的に懐疑していけたらいい。

そうしたらきっと、ジェンダーとか、性的嗜好とか、そういうものの型に嵌めない、一個人としてコミュニケーションをしていけるような社会がきっと拓かれていく。
私たちの次の世代、次の次の世代には、そういう社会が当たり前になっていたらいいなと思う。

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