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いつか還る場所にも咲いていてほしい花

会ってすぐ、左手の薬指を確認した。まだ結婚してなかった。ホッとした自分がいた。

「アプリコットサワーにします」
「あーやっぱりな。じゃあシークワーサーサワーにしよ」
それ迷ったやつだ。あーやっぱりな。

やっぱりいいなあ。

仕事で気になる人に会った。直接会うのは年末のクリスマスディナー以来だ。以前自分のインスタに何の気なしにあげていた好きなパティスリーのスイーツをお土産に買ってきてくれた。いま取り組んでいる仕事の話を噛み砕いておもしろそうに熱弁してくれた。おじさん扱いも許してくれて失礼な軽口も言い合えて、わかりづらくて面倒臭い性格同士で物事に対して引っかかる部分や気になるアートや社会的なテーマが似ていて、意見が対立することもよくあるけれど遠慮せずに語り合えて、私的にはなんだかんだ馬が合ってると思うんだけどなあ。

私より10歳上の彼には同棲中の彼女がいる。もう結婚も秒読みだろう。物理的な距離もあるし、潔く玉砕して諦めて次にいくのが良いとわかりつつも、仕事上の関わりがあるので告白することもできない。他の人とデートしたり彼氏を作ったりしてゆるく忘れつつ現実的な幸せを見つけていこうと前向きに思い立ったのが、前回のクリスマスディナーの後だった。でもアプリでいざ新しい人に出会ったりしてもなんか違うなとかあの人ならなとか勝手に思ってしまうし、その気持ちに蓋をして付き合ってみた彼氏とも気分が乗らなくて別れて傷つけてしまっただけで終わり、ああ私懲りないなあと思い知ったこの春。

もっと出会うのが早かったらとか、私は彼より10歳も下だから未熟に見えているだろうとか、彼の恋人よりも私の方が出会うのが早かったらなとか、彼が素敵だと思うような女性に今すぐなりたいのにとか、毎回そんなことを思ってやり切れない気分になって、運命なんてものはまやかしで結局は偶然を美化して人々が好き勝手評しているに過ぎず、全てのものは私たちの思考により改変される対象なのだとわかって、そのことに途方もない無力感を覚え、最終的にもう一切の思考から解放されたくなるのだ。

例えば、一応まだお互い未婚だからもしかしたら億が一の一にはそういうこともあり得るかも知れないとして、その妄想は私を真に幸せにする保証もなければ私が求めているのがその結論なのかも分からないし、それがそもそも結論であるとも限らない。だがその一縷の可能性で心が慰められている現実の中で、結局のところ私も根拠のない思考に救われる人間であることを思い知るのだ。

人は恋をすると詩人になるとはよく言ったもので、私もその例外ではないのだけれど、私の場合は元々のへんに理屈っぽい性格が災いして、どうしようもない恋のどうしようもない現状をなんとか思考して咀嚼しようとするところがあって、もうその時点で詩のようにうつくしい表現には到底なり得なくて、残念ながら、ただこの報われない恋をしている自分に対して必死に言い訳を並べ立てているような、惨めな気分になるのだ。

結婚だけが幸せではないとか、愛にも色んな種類があるとか、あるいはその他諸々の現代っぽい多様性の思想が、私を勇気づけることもあれば逆に私を現実に突き放すこともあって、強さや強かさを強要されているような気にもなって、孤独感は深まり焦りや心苦しさを感じることもあって、思想を感情的な拠り所にすることの恐ろしさを感じるのだ。

以上のようなどうでも良いことを考えていることをお首にも出さず私は、その人とアットホームな餃子屋でひたすら餃子をつついて2軒目ではフルーツのサワーを飲み比べて、3軒目ではイタリア料理をつまみにワインとスイーツを頼んで、でも彼はこの後サウナに行きたいからとあまり飲み過ぎることもなく、個人的な興味や概念の話をしながら帰路に着いた。通り過ぎたどこかの公園の花壇にはアネモネがたくさん咲いていた。紫も赤も白もあって、街灯の限られた光の下でも鮮やかだった。「アネモネが綺麗です」と言ったら「うん」と彼が頷いた。月もよく見えた夜だったけれど月について同じように述べるよりもずっと私たちらしくて良い、と私は思ったし、適当な肯定をしない繊細な人の「うん」が沁みた。それ以上の返答がなくてよかった。アネモネの花言葉は「はかない恋」だとか「見捨てられた」というものだが、そんなことは私だけが知っていればいい話なので言わなかったし言わずに済んだ。ふと私は、いやにゆっくりと歩く駅までの帰路、最近再読した「堕落論」の有名な一節を思い出していた。

「孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。」

何度も読み返した本なのに、この一節がこれほどに響く瞬間が来るなんて驚きだ。これだから過去に生きた文筆家の独り言の記録は偉業だと思う。孤独は故郷、ということは、皆そこからやってきていずれ還る場所だということで、それならばこのような行き場のない退屈な恋をするのも多少は安心できる気がしたのだ。酒のせいかも知れないけれど、私は恋というものに対して今までで一番、楽観的に捉えることができている気がした。決して坂口安吾が意図した意味合いではないだろうに、孤独の存在にこれほど助けられるとは。やはり故郷というのはいつまでも己の味方であるらしい。

過去、現在、未来の自身の恋の帰結が、一般的に連想される交際や結婚とかではなく、私が言葉を紡ぐための純粋な動機となってきたことや、これからも生きるための泥臭い活力となるかもしれないことを、それだけを唯一の意味として与えていくつもりで今はいる。それは結局のところ、徹頭徹尾自己満足であるし、私の思い描く愛とは対極にあるものかも知れないけれど、自己愛もまた愛であることを思えば、せめて私の恋も、夜の間のある一瞬、ふとした瞬間を彩る花のような存在であって欲しい。

もっとたくさん旅をしたい、いろんなことを知りたい、もっとたくさん学びたいこともあるし見聞きしたいこともあるし、より深く優しい人間になって、たまに嫌になりながらもやっぱり思考することをやめられず、たくさん思考してこういう気持ちもいつかどこかで生きるあなたに表現できるようになりたいと思います。

この恋がどういう結末に辿り着くかなんて知る由もない。次に会うときに彼の薬指に指輪が嵌っていても、この先隣で餃子をつつくことがなくなっても、合わせてもいないのにオーダーが被ることがなくなっても、やっぱり私では結ぶことができないまま呆気なく疎遠になったり永遠の別れが来ても、悔いのない旅のなかでしんどくなる度にいつでも故郷に還ればいい。その場所にはあの瞬間誰のためでもなくさわやかな春の夜風に揺れていた色とりどりのアネモネが咲いていてくれたら、私は飽きもせず救われた気になるのだろう。

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