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ローズ

 4日前、アンティークピンクの薔薇を、いつものスーパーの片隅で見つけた。色もはっとするくらい美しかったが特に素晴らしかったのはその香りだ。あまりに甘くてくらっとしてしまう香りだった。私は一瞬で心を奪われて、二束、衝動買いをした。
 今朝、その香りはもうしなかった。暑さからか色もくすんで、しなっと萎んでいた。私は冷たい水を差しながら、もう生花は買わないだろうと思った。せめてあの香りの香水があればいいのに、だがそんなものはないに違いない…そこまで考えたところで、そもそも、私はもうその香りを思い出すことすらできないことに気が付いた。

 思えば、通勤途中に通る大きな病院の庭には、瑞々しいコバルトブルーとライトブルーの紫陽花が咲いていた。1か月前のことだ。毎朝8時ごろ、車椅子に座った老婦人が、じょうろでそれに水をやっていた。朝日に照らされ水に濡れるといっとう鮮やかに見えるその紫陽花が私は好きで、6月ってなんて素敵なのだろうと思った。だが今ではドライフラワーのようにくすんだ茶色になり、私は見苦しくて目を背けている。あの老婦人の姿も見かけなくなった。

 昨日、暑くて下を向いて歩いていたら、数日前には煩かった蝉が、火傷しそうなアスファルトの上で焼かれているのを見つけた。私はお気に入りのサンダルでそれを踏まないように注意深く避けて歩いた。いつの間にか部分焼けした私の脚と、欠けたヒールの角に目がいって萎えた。

 冷蔵庫に入れておいた、スーパーで見つけた真っ赤な艶のあるトマトは、もう傷みはじめて皮に皴ができていた。食べる気が失せた私は生ゴミの袋にそれを捨てた。食欲も大してない。いつも通り、栄養ゼリーを水で流し込んで3分足らずの朝ご飯を終えた。

 …今日は仕事が休みだ。
7月31日の午前11時、私は久方ぶりに厚地の遮光カーテンを開けてみた。いつも閉め切っているが、何の気なしに開ける気になったのだ。
途端に、どんよりとした蒸し暑い熱気だけが伝わってきた。開けている意味も感じられず、即座にまた閉めた。
だが、閉め切って遮断した部屋の外側では、どうやら夏が駆け抜けているらしい…光の速さで走るように、あるいは沈黙の中でそろそろと気づかれないように。私は必死に鈍感であろうと日常を生きている。季節に取り残されている…そう感じながら。

 昨日も、私とあの人の会話は22時まで続いた。
私はいつまでも続いてほしいと思うけれど、彼には帰る家庭があるのでそんなわけにはいかない。BGMもない静かな車内で、他愛もない、とりとめのない話を、ただ素面で重ねていくだけの時間。「音楽はあまり聴きませんか」そう聞くと、「いや、いつもは適当に流し聞くよ。でもいまは、勿体ないから聞かない。」と返ってきて、私は閉口した。ああ冗談にもできず馬鹿みたいだな、と目の奥が熱くなった。

 それから沢山の話が続いた…いままでで一番だった旅行先の話、留学先で吸ったマリファナがきのこの味だった話、カントの純粋理性批判の話、仕事や結婚や、いつかしたいことの話、学生時代の断片的な記憶の話…
だが、たまにこうして一緒にあがっては紡いできた結論のないその対話も、あと数日で彼が北国に赴任してしまえば、強制的にお仕舞だ。


 いろいろなものがこの夏とともに終わる。それは予感ではなく確信である。
だがその先には私の最も好きな季節がやってくる…喜ぶべきじゃないか。
木の葉は美しく紅く色づき、風は涼やかに甘やかに吹き抜けていく、そんな中で私はまたひとつ歳を取り大人になるのだ。食の季節と託けて好物のモンブランなんかを食べ、眠れない夜は読書の季節と託けて夜更かしをすればいい。

季節に取り残される…?
いや、じんわりと暑い夏の中で、私も移ろっているのだ。本当はそのことを知っていた。今抱えているこのやるせない恋心も、痛みも、もどかしさも、そのうち時の流れとともに何処かへ流れ着く代物だ。

本当は、美しい薔薇をただ見てその香りに癒されて、満足するだけの私でありたかった。

本当は、瑞々しいトマトを腐らせる前に美味しく食べきる私でありたかった。

本当は、私を好きだといってくれる同年代の安心な男を選べる私でありたかった。

本当は、疑念を持つことなく置かれた場所で楽しんで働ける私でありたかった。

本当は、「君は本気で人を好きになったことないでしょ。俺もなんだ」と言われたときに、はい、でも私は貴方のことを本気で好きになりましたと、伝えられる私でありたかった。

本当は、すべての負の感情を隠蔽して良い子ぶったクローバーの絵文字なんかを使う代わりに、貴方が幸せならばいいと、勇気ある言葉を適切に伝えられる私でありたかった。

本当は、あの人が仕事終わりにいつも、甘党の私にドーナツを半分分け与えてくれるように、彼の悩みや弱さや人生を半分もらって、一緒に背負える私でありたかった。

そんな私だったら、もっとうまくこの夏を愛せたと思う、だがそんな私はこの夏にはいなかった。

午後17時をまわった。
日が傾く頃、私は暗い部屋でひとり、ショパンのエオリアンハープを聴く。少しだけ窓を開けると、朝よりも風を感じる。ぬるいけれど、不快ではない。

──いや、不快でないどころか、寝転がると、なんか気持ちがいいな。このまま寝てしまおうか。あーあ。

結ばれることがなくても、あの人を好きになって初めて知ることができた言葉や感覚があることに感謝して、この先出あう誰かへのやさしさに昇華できるような、強い女になりたい。

私の感性を褒めてくれたあの人に夢が叶ったことをいつか報告できるように、孤独と寄り添いながら生涯書き続けられるような人間でありたい。

普遍も不変もあり得ない世界で、だからこそいっときの美しさもそれが刻む時間ごと純真に愛せる私でありたい…

 秋、たくさんの新しいものだらけ、新しいことだらけの日常が始まるだろう。確信はないが、そんな予感がする。また新しい薔薇と出会ったりするのだろうか、どんな色だろう、どんな香りがするだろう?私はできるならば懲りずに恋に落ちたい。
また、諦めわるく愛せるかな。
夏の記憶が朧げになっていっても、秋はその追憶の先にこそ続いていく。それならば、変わっていくことも、忘れていくことも、恐れないでいたい。でも、

──あと少しだけ。夏が駆け抜けるその間だけ、このカーテンに隠れて、気怠い窓辺で一休みしよう。


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