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暮らすように旅しよう

民泊王手のairbnbが、抽選12名限定で、世界のどこかで12ヶ月暮らせるキャンペーン“Live Anywhere on Airbnb”を始めた。


応募しようか真面目に迷っている。
当選する確率を考えれば、一か八かで応募しちゃえばいい気もしてきた。(宝くじみたいなものだ)

12ヶ月、ということだから、まるまる1年。
長っ!とも思うけど、人生の中の1年と考えれば、きっと特別なものになるだろう。私の今の職場なら、幸いリモートワークも可能なはずだ。

今はコロナ禍で少し心配な面もあるが、間違いなく、旅と人生の関係について考えさせられる機会になるだろう。

私はairbnbには、少し強い思い入れがある。
そのコンセプト、「暮らすように旅する」という言葉に出会ったのは高校時代だったと思う。そんな生き方がしたい、と、当時の私は夢想した。

週末にさくっと台湾に行ってかき氷を食べたり、有給を1ヶ月くらい取ってヨーロッパの人みたいにバカンスに行ったり、観たいミュージカルのためだけにブロードウェイに行ったり、かつて仲が良かった留学生と、シンガポールで落ち合ったり…
ヨイショ、と腰を据えて行く「観光」ではなく、暮らしの一部として環境を変え、視点も自分も変えていく…行った場所に自分の居場所がある、という生き方は、自由で豊かな人生だと思った。
それに、いわゆるチェーンホテルに泊まるよりも、民泊を利用して現地の人々の生活に触れ合いながら吸収していく文化や交流は大変魅力的に思われた。

というわけで、そんな憧れのairbnbの公式インスタグラムを見るのは、私の趣味とまではいかない趣味のひとつであり続けてきた。
そこには、「一生のうちに、いつか行けたらいいなあ」なんて場所の画像が、たくさん投稿されている。私は気に入った画像を、その都度ブックマークしている。今やその総数、100枚近くにのぼる。
はたして一生のうちに、制覇できるのだろうか。いや、現実問題、おそらくできないだろう。

暮らすように旅する、とは遠い私の日常生活。
出張は多いが、現時点ではそれほど実現していない。それでも未だにブックマークをしてしまう。
きっと、実際に行けなくてもいいのだ。そこで暮らすことはおそらくないのだが、それでいいのだ。最近はそんなふうに思い始めた。

おかしなことに、最近airbnbのインスタグラムを見ていると、かつて抱いたような「旅先の予定を立てる」ドキドキ以上に、「世界にはまだこういう場所が残されている」という当然の事実に、ホッとする自分がいる。

全てが嫌になったり、面倒になったり、ストレスが溜まったり、くそくらえと思うような時、現実逃避をしたくなることは、よくあることだと思うが、その大量の候補と逃げ場が、世界の何処かにはあるというセーフティネットのような捉え方をするようになった。もはや、存在する桃源郷みたいなイメージですらある。

私の場合は、その場所はどこか見知らぬ海辺だ。それがバリなのか、マルタなのか、エーゲ海なのかはわからない。
穏やかな石畳の街に行きたいと思うこともたまにある。オレンジの夕陽に照らされて一等輝かしい、古い街並みの中で、パンの香りが漂っていたら最高だと思う。
私はその夢想の中でいつも完璧にひとりだ。それが最高である。もちろん、そこに私を知るひとはいない、という意味でのひとり。

でも逃避欲の大きな問題は、その欲が満たされることはないというところだ。
たとえばノルウェーのオーロラの下に行ったら行ったで、その時泣けるほど感動しても、きっと私は「ああこれからどうしようか」「帰らなくてはならないのか」「家族は、仕事は、大丈夫だろうか」などと考え始め、悶々とその絶景を見つめることになるのだ。それで暗い顔で帰りの空港で、リザベーションを取るまでが想像でき、その時私はすでに次の逃避欲の虜となっている。

完全に逃避することができても、逃避の先は帰還であるならば、厳密には、その欲は満たされない。また別の逃避欲を生み、逃避に逃避を重ねるしかなくなる。

常に、不安がベースにある心理状態で、トリップは、逃避…よりライトにいうならば「気分転換」や「娯楽」。
私にとっての「旅する」という行為の認識が、いまや、「暮らす」の対極に位置しているということに気づいた。
それはとても残念で、かなしいことだ。

新卒で入った会社では、「やりたいことがやれない」「人間関係がしんどい」と思っていて、常に不安とストレスがあり、3食も面倒になり、あるいは寝てしまうと次の日が来ることが憂鬱で、このままじゃ嫌だと思って転職をした。
転職した今、やりたいことをしていて、至らなくも学ぶことが多く、人にも恵まれているが、その分、負荷のかかる案件までのカウントダウンやら準備が重く、常にどこかで「不安状態」にある。

それなら、「暮らすように旅する」に憧れた学生時代、私に不安はあっただろうか。
ないということは決してなかったはずだ。
ハードなゼミ活動のこと、進路のこと、自分のコンプレックスのこと…程度の差こそあれ、恒常的な不安や悩みはつきものだった。
完全にストレスフリーで、完全に人生を謳歌している瞬間の方が稀有だった。
そして私の場合、経験則的にいって、過度な不安は怠惰をうむ。
適度な不安は緊張感や克己につながるけれど、過度に晒されると、休みたい、逃れたいという欲求に従順になりたくなって、暇つぶしに興じたり無気力になったり、逃避欲が芽生えるのだ。

なんでも楽しめたら何も問題はないのだろう。
なんでもポジティブに感受できたらいいのだろう。
生き生きと、自分の人生を、与えられた場所で生まれ持った自分で謳歌できたら、それほど幸せなことはないだろう。


暮らすように旅する、というスタンスは、逃避と対極であるといった。つまり、自分の中での「逃げ場」を失うことだ。それが私は怖い。怖いと同時にやはり憧れる。
この広いようで狭い世界、全てが自分にとっての「現実」のフィールド。全てが自分にとっての「日常」の延長。
選ばれし12人になることはないだろうけど。笑
万が一選ばれたら…と想像したときに、不安よりも楽しそうかも、、が勝る、この気持ちを持ち続けたい。

世界のどこへ行っても私は、当たり前に将来が不安で、当たり前に仕事やら新たな人間関係やらで悩み、当たり前にストレスが溜まるのだろうけれど。
でもきっと、そこにはまだ食べたことのない美味しいものがあって、出会ったことのない人がいて、常識だと思っていたことが違っていて、うつくしいと思うものが異なって、人生や生活の多様さを目の当たりにして、そのすべてが、逃避対象としての特別な体験ではなく、あくまで私にとっての新しい日常になっていくのだろう。

それはやっぱり、素敵なことだ。

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